旅の空にて
けれど、森を圧倒するような天蓋の海が広がっている。木立を透き間を縫って 月が、苛烈なほどの光を刺し込んでいる。
まるでその光を浴びると刺し貫かれるかのようだ。
青白い光の刃。
恐る恐る手を光の匕首に触れさせてみた。もしかしたら、何か、生まれてから 一度も経験したことのないような感覚を味わえるかと思ったのだ。
が、不意に光は柔らかになった。紗を纏ったかのように曖昧になった。
月が雲の波に呑み込まれてしまったのだ。
その代わり、天の海には恐ろしいほどの星々が鏤められていることを知った。
無数の星の白砂は、それぞれが生き物の魂なのだ。これまで生まれ生き死んで いった、あらゆる生き物達の永遠の思い出なのだ。
一度、この世に現れたものは、決して消え去ることはない。かつてあったもの は、今もあり、これからも命が絶えることはない。生き、そして息絶える末期の 時に深甚なる思いを抱いた、その思いは、凝縮され結晶となって、やがて星とな る。
この世の人間だとか犬だとか猫だとか、狼だとか、いや、踏み潰されたゴキブ リだって、潰れる瞬間にキューと鳴いて胸から魂を吐き出す。
きっと植物にも心があるに違いないのだ。誰も気付こうとはし ない。気付くのが怖いのかもしれない。踏みしだく落ち葉だって、その一葉一葉 に命があり、祈りがあり、生きるという営みがあったに違いないのだ。
その証が朝の露なのだよ。数え切れない葉っぱたち一枚一枚が涙を流す。それ は喜びの涙か、それとも、悲しみの涙なのか、誰にも分からない。分かる必要も ないことなのかもしれない。
ホンの少しでも植物達の声に耳を傾けようと、目を閉じてしばし立ち竦んだ。
やがて肩を射竦めるような感覚があった。底抜けに冷たい、孤独な感触だった。
恐る恐る目を開けると、また月が姿を現しているのだった。
月は女性的だなどと、一体、誰が言ったのだろうか。きっと、そいつは真の闇 を知らない奴に違いない。月の光は夜の底に蠢く魂たちの涙の煌きをさえ、平気で圧倒し去ってしまう。世界を青白い色一色で染め上げてしまおうとする。
怨念にも似た月の光は、この地上世界をも貫通し、地の底の、まだ腐りかけている 葉っぱたち、あるいはいつの日かの蘇りの時を待つ幼虫をも、その眠りから無理 矢理にも目覚めさせようとする。
真夜中なのに、闇の深さを知る時なのに、あらゆる生き物が己の魂と共にあり、 愛する誰かとの夢を貪っている時だというのに、そんな安逸なる世界の実現を許 さないのだ。
月は野蛮なる戦士。全てを喰らう獣。そして暗闇に隠しておきたい何かを、神 秘の光で抉り出そうとする夜の世界の怪物。
そうか、草露があんなにも、タップリなのは、そのせいなのか。月の仕打ちに 嘆き悲しんでいたせいなのか。我が衣にさえも露が垂れ零れている。せめて、こ の悲しみをほんの少しでも分かち持ってほしいと、懸命になって涙を振り絞った のに違いない。何かを分かってほしいと訴えているに違いないのだろう。
ああ、でも、今の俺にはそんな心の余裕はない。俺も永遠の命に触れたくてな らないのだ。命の露を呑みたくてならないのだ。我が身の露の乾かぬよう、必死 なのだ。
俺は足を進めた。ひめやかなる声のするほうへと。そこが崖っぷちだとも気づかずに。
(「朝露の」(02/07/24)より)
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コメント
タロットカードに「月」という札があります。
不安や疑いなどを表す、不吉なカードです。
それを思い出しました。
十五夜のイベントでは、決してそんな気持ちにならないのですけどね。
月にはいろいろな顔があるような気がします。
投稿: 砂希 | 2015/02/07 15:45
砂希さん
月にはいろんな表情がありますね。
ドイツ語では、月は男性名詞、太陽が女性名詞。
日本では、断然、女性的優しさの象徴。
土地柄や気象条件、歴史が月へのイメージに投影されている。
でも、アポロが月に到着して以降、一気に月への思い入れが不可能になった。月への想いを語ろうにも、あの月に人類の足跡が、と思うと、一気に想像の翼が萎える。
月を巡っての小生のエッセイで一番、読まれたもの:
「真冬の満月と霄壤の差と」
http://atky.cocolog-nifty.com/houjo/2013/01/post-7ca1.html
投稿: やいっち | 2015/02/07 23:00