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2015/02/26

ミケランジェロの憂鬱

 自宅では、閻連科著の『愉楽』(谷川毅訳 河出書房新社)を読み始めた。日本では(あるいは世界のどこだろうと)、しかもそれが小説(虚構)だろうと、普通なら使うことの許されない表現(言葉)が数多く、飛び交う。

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→ 『モーゼ』ローマ教皇ユリウス2世霊廟の彫刻(1513年 - 1515年頃) サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ(ローマ) (画像は、「ミケランジェロ・ブオナローティ - Wikipedia」より) この像を誰よりも深く読み解いたのは、『モーセと一神教』のジグムント・フロイトだろう。若い頃、何度か読み返したが、そのたび、賛嘆のため息が出たものだ。どんな推理小説より面白い…なんて書くと不謹慎だろうけど、実に面白いんだから、仕方ない。

 びっこ、めくら、つんぼ、おし…などは当たり前に出てくる。
 では、これは差別の物語なのか。さにあらず。むしろ、全く逆である。この小説によると、中国本国でも日本語で言う健常者が当たり前で、そうでない人間は差別されはじき出される傾向が強まっているという。

 経済格差、生まれや学歴、縁故の格差、容貌などの格差。正社員と派遣パートの格差。その結果のあまりの深刻さ。
 これは同調化の圧力が強いと思える日本社会ではとっくに,、中国など比較にならないほどに歴然たる現実となっている。遺伝子診断で生まれる以前に心身に異常があると認められたものは闇から闇へ葬られる。健康と健全さが何より大事な、常識の許される幅の極めて狭苦しい社会。
 閻連科の小説では、そうした者たちこそが主役になっている。いわゆる健常者は影が薄いのである。せいぜいサポート役。
 思えば、小生が好きなガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』や、昨年、数十年ぶりに再読したドノソの『夜のみだらな鳥』なども、身体(容貌)の怪異な人物たちが主役である。

 まあ、本書は読み始めたばかりなので、後日、触れる機会を持ちたい。

 車中では、グスタフ・ルネ・ホッケ著の『迷宮としての世界(上)――マニエリスム美術』 (種村 季弘 (翻訳), 矢川 澄子 (翻訳) 岩波文庫) を牛歩といった感じで少しずつ読んでいる。
 つい先日、ミケランジェロが登場してきた。
 比較するなら、せいぜいレオナルド・ダ・ヴィンチくらいだろうと思われる、ずば抜けた天才。
 小生にはあまりに巨人過ぎて、採り上げる機会は来そうになかった。
 ところが、ミケランジョロのあまりに意外な(小生が無知だっただけなのだが)姿に驚かされたのである。

ミケランジェロ・ブオナローティ - Wikipedia」によると、「ミケランジェロは存命中から非常に優れた芸術家として高い評価を得ており、現在でも西洋美術史上における最高の芸術家の一人と見なされてい」て、「ミケランジェロが制作した絵画、彫刻、建築のいずれをとっても、現存するあらゆる芸術家の作品のなかで、最も有名なものの一つとなっている」のは、今さら言うまでもない。

 美術史に知悉している人には常識なのだろうが、小生には意想外の事実だったのは、「長寿を保ったミケランジェロの創作活動は前述以外の芸術分野にも及ぶ膨大なもので、書簡、スケッチ、回想録なども多く現存している。また、ミケランジェロは16世紀の芸術家の中で最もその記録が詳細に残っている人物でもある」という点なのである。

「ミケランジェロの伝記を書いたパオロ・ジョヴィオも「洗練されていない粗野な人柄で、その暮らしぶりは信じられないほどむさ苦しく、そうでなければ彼に師事する者もいたであろうに、結局は後生に弟子を残さなかった」と記している。ミケランジェロは本質的に孤独を好む陰鬱な性格で、人付き合いを避けて引き篭もり、周囲にどう思われようと頓着しない人物だった」という。
 性的指向についても、同性愛的傾向があるのではという疑惑も持たれていた(今も?)ようである。
 さて、驚いたのは(驚く小生が認識不足なのは言うまでもないとして)、書簡や回想録と共に、詩文(ソネット)をも書いたという事実。

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← 大英博物館が所蔵する、ヴィットリア・コロンナを描いたミケランジェロのドローイング。ミケランジェロ65歳、ヴィットリア50歳のときの作品と考えられている、 (画像は、「ミケランジェロ・ブオナローティ - Wikipedia」より)

「ミケランジェロは300以上のソネットとマドリガーレを書いた。最も長い作品は1532年の、57歳のミケランジェロと出会ったときに23歳前後だったトンマーゾ・デイ・カヴァリエーリに捧げたものである。このソネットは、一人の相手に話しかける構成で書かれた詩歌のなかで最初の長文作品といえるもので、多くのソネットを書いたシェイクスピアに先立つことおよそ50年となる」とか。

 ということで、さて、ようやく本題である。
 グスタフ・ルネ・ホッケ(著の『迷宮としての世界(上)――マニエリスム美術』 (岩波文庫) )によると、ミケランジェロの「晩年の詩のひとつの中で、ミケランジェロは老いさらばえた老人として自身を描写している」として、以下の自由口語訳による詩を紹介している:

「わたしは莢(さや)に隠れた豆の髄のように、瓶の中の酒のように、世を避けて、貧しく、孤独だ。墓のような住居のために飛ぶこともままならぬ。雌蜘蛛とその姉妹どもが、ここに幾千の塵にまみれた灰色の巣をめぐらしている。満腹した男や薬を服んだ病人は、わたしの家の前で糞をたれていく。わたしには、下水溝の中の小便の臭い、夜中にうろつきまわる白痴や猫や腐肉、尿瓶や糞壺の悪習がちゃんと嗅ぎわけられる。そんな汚物の容れもの中味を空けるだけのためにさえ、やつらはわき目もふらずわたしのところめがけてやってくるのだ。わたしの精神はむろん肉体にたいしてはるかに優位にある。なぜなら、こうした臭いを嗅ぐときには、わたしの精神はパンもチーズも、一切をとうに手ばなしているだろうから。咳嗽(がいそう)と悪寒に身はふるえる。あの〝下界〟の空気を吸うことにでもなれば、たちまち口から吐息すら吐けなくなるだろう。わたしはあらゆる苦難のために身をすりへらし、ずたずたに張り裂け、破砕した。かつて食事を取った料亭も、いまやことごとく廃屋と化した。わたしの歓びは憂鬱(メランコリー)、わたしのいこいは憂悶だ。大廈高楼(だいかこうろう)の立ち並ぶさなか、この賤屋にあって、道化師としてなら格好の姿でもあろう。愛の炎(ほむら)はすでに消えて、たましいは空ろ。わたしは壺の中の蜂蜜のように喧しい。わたしは骨と腱のある革財布、腹の中は石がごろごろ詰まっている。眼はどんよりと病的で、歯はさんざん使い古され、話をするたびにカタカタ音をたてる。わたしの貌(かお)、そのいびつなかたちは恐るべきものの肖像。片耳には蜘蛛、もう一方の耳には蟋蟀が巣くっている。カタル性のかゆみが眠りをうばう。愛、美神(ミューズ)、花咲く洞窟、すべてが汚物の中で窒息している。どうせ、大西洋を横断しょうとしながらドブに首を突っ込んで死ぬ男のように野垂れ死ぬのなら、こんなガラクタをつくりつづけて、なんの足しになるだろう! わたしのつぶさに知っている賞賛された芸術というもの、これがためにこんな顛末にまでなってしまった。貧しく、老いさらばえ、他人によりすがって。まもなく命を終えるのでなかったら、みずから命を絶った方がましだ!」 (p.181-3)


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コメント

芸術家は基本的に偏屈ですよね。
人づきあいの苦手な人も多いようです。
言葉で伝えられないことを作品に託すのでしょうか。
ミケランジェロは、とりわけ変人だったみたいですが、ちとショック。
弟子すら寄りつかなかったのかも。
芸術家は孤独です。

投稿: 砂希 | 2015/02/28 20:20

砂希さん

そこそこの才能、つまり同時代の人に理解可能な才能なら、世間的な成功も可能だろうし、世の人の精神的な生活を豊かにすることも難しくはない。

でも、ミケランジェロほどの天才となると、同時代の人間とは相互理解やコミュニケーションは不可能。
モラルにしても、同時代の下卑た感性は我慢ならない。ひたすら苦痛だったでしょう。
でも、彼の苦悩の恩恵を我々は享受するわけです。

投稿: やいっち | 2015/02/28 21:27

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