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2015/01/27

「なぜにマルコ・ポーロは大旅行を果たせたのか」続編

 前回の日記の題名は、「なぜにマルコ・ポーロは大旅行を果たせたのか」だった。
 それは、モンゴル帝国のフビライの信頼を得たからだった。だからこそ、広大なモンゴル帝国の内外を特権を得て、見聞を広めることができわたわけだ。

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← 「Il Milione」 (画像は、「東方見聞録 - Wikipedia」より) 『イル・ミリオーネ』は、写本の名前であり、マルコ・ポーロ存命中に発刊された(「マルコ・ポーロ - Wikipedia」参照)。

(ここには、有史以来最大の領土を有したモンゴル帝国の交通・通信網の稀有さに恵まれた、という大きな幸運なる事情があることは言うまでもない。)
 考えてみるまでもなく、当時にしても、少なくとも商人はマルコに負けず劣らず見聞を広めた人はいたはずである。

 だが、その大半は、見聞を記録することはなかった(あるいは、記録しても、文書が残らなかった。さらには、注目されなかった)。

 その中で、ほぼ唯一、マルコ・ポーロの記録が残ったのは、そもそも、「『東方見聞録』は、マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記である」(「東方見聞録 - Wikipedia」より)という性格にある。

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→ 『イル・ミリオーネ』 (Il Milione) のミニアチュール (画像は、「マルコ・ポーロ - Wikipedia」より) 写本の発注者はブルゴーニュ公ジャンであり、後の所有者は傾国の愛書家であるベリー公。なので写本の本文より極彩色の装飾に目を奪われることに。さらに豊富なミニアチュールの数々。「それぞれの挿絵について画家にはその内容が大まかに指示される」だけ。「画家はテキストを熟読しない」。だから、「テキストの新奇な内容が当時のヨーロッパのありふれた光景によって表現」されがちである。但し、発注者や所有者から察せられるように、ミニアチュールの出来栄えは上々である(これらの説明は、本書(マルコ・ポーロ著『東方見聞録』(月村 辰雄/久保田 勝一 訳  岩波書店))の「マルコ・ポーロを原典で読む」より)。

 マルコが口述した見聞内容を小説家であるルスティケロが採録編纂した旅行記だからこそ、文書化されたのであり、残ったのである。
 では、そのルスティケロ・ダ・ピサとはいかなる人物なのか。
「ルスティケロ・ダ・ピサは、13世紀後半、ピサ出身のイタリア人小説家」(「ルスティケロ・ダ・ピサ - Wikipedia」より)であり、上述したように、マルコ・ポーロが口述した『東方見聞録』の採録編纂者だが、実は、「アーサー王の『アーサー王の円卓騎士物語』(またはアーサー王伝説)などを翻訳)で知られている人物なのである(というより、『東方見聞録』の筆記者として有名なので、他の経歴も付記される、というべきかもしれない)。

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← 「タタールの衣装を纏うマルコ・ポーロ」 (画像は、「マルコ・ポーロ - Wikipedia」より)

 実際、『東方見聞録』を読むと、中世の艶笑物語の影響(あるいはルスティケロの作家としての嗜好)が如実に表れている個所があり、小生のスケベ心にも強く訴えてくるの。想像などが膨らむ。退屈になりがちな記述が、その辺りに来ると、俄かに色鮮やかに感じられてくるのだ。

 蛇足だが、マルコ・ポーロは本当に中国を見聞したのかを疑問視する人も多い。たとえば、万里の長城の見聞記が一切ない、などなどの理由で。
 実際、記録上、ベント・デ・ゴイスが「中央アジアを3年間かけて4,000kmにわたり旅をし」、「1605年には万里の長城に至」ったのが、西欧人が万里の長城を見た(記録に残った)最初なのかもしれない(「マルコ・ポーロ - Wikipedia」より)。

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