歌謡曲が流行っていた時代は遠くへ
今冬は、本格的な寒波の襲来が早いのか(つまり、今が冬のピーク…と思いたい)、今月に入って雪掻きの日々が続いている。今日も、一体、何度、雪掻きをしたことやら。
→ お絵かきチャンピオン作「ダムに沈んだ村」(11月23日) (ホームページ:「小林たかゆき お絵かきチャンピオン」)
できれば、今冬を振り返ってみたら、師走のあの頃が最もひどかったなーって思えたらいいのだが。
お蔭で、体重の増加傾向にストップがかかったなら、不幸中の幸いなのだが、さて。
今朝未明、というか、昨日は仕事が早く終わったので、就寝に就いた夜半頃、片岡義男著の『歌謡曲が聴こえる』( 新潮新書 )を読了した。大半を仕事の最中に読んでしまっていて、残りは後書きを含めても、ほんの十頁ほど。
寝床で最後の部分を読もうと、敢えて少しだけ残しておいたのである。
片岡氏は小生より15歳年上。小生も物心ついた頃から歌謡曲にどっぷりだったが、本書を読んで、彼ほどではないと思わせられた。というのも、小生はSP盤にしろLPにしろ、レコードを買おうとは滅多に思わなかったから。
まして、歌詞が載った本を買おうという発想は皆目なかった。
なので、歌手の発音が悪いのか(小生の耳が悪いのか)、何度も何度も同じ曲を聴いているのに、好きな曲なのに、歌詞をちゃんと聴き取れないことが何度もあった。だからといって、レコードを買って、歌詞カードを観て確かめようとも思わなかった。当時は、テレビに歌詞がテロップで流れるなんて、あまりなかったし。
レコードをドンドン買うのは別にしても、歌謡曲の聞き方、身の入れ方は、随分と違うものだと思った。
小生なりに歌謡曲を聞きながら、歌っている歌手(大抵は食い入るように見入る、聴き入るのは若手の女性歌手だが)の表情や仕草、衣裳、ステージなどの演出を目にしながら、自分なりの場面を浮かべる。
場合によっては、短い恋のストーリーを作り上げたり(当然ながら、自分が話の中の主要な登場人物!)、いずれにしても、のめり込むように聴き入っていたのだ。
無論、好きな曲は必ず自分でも唄う。小学校の三年か四年くらいまでは、家族の前でも平気で歌っていたが、ある時、父の小生の歌唱に対する批評めいた言を聞いて、ショックで、それからは人前では一切、歌うのを止めた。
小生の場合、歌手は山の向こうの遠い存在だった。というより、作家も音楽家も芸術家も、凡そ創造する人、文化に関わる人はアルプスの山々の彼方の存在だった。
身近には芸術と言わず、文学と言わず、創造に携わる人物はいなかった(正確に言うと、小生の視野が狭くて、全く気付かなかった。実際には居たのだろう)。
音楽は、最初はラジオから、次いでテレビから流れてくるもの、映っている世界であって、自分には無縁な世界だった。あるいは、恋も愛も、物語自体が自分には縁のない、作り事の世界に止まるのだった。
だからこそ、安心して、歌えるし、のめり込めるのだった。
小生はやがて、1980年ごろ、歌うのを止めた。それまでは胸に常に歌があった。歌謡曲や演歌やポップスがあった。時にクラシックやロックがあった。
歌えるかぎりは、人前では沈黙を保ったが、一人の時は、歌っていた…のだったが。
80年に歌を失ったのである。
それでも、90年頃までは、テレビやレコード、テープ、有線などから流れる歌謡曲は聴き浸っていた。但し、曲が流れている間だけ、小生の心は動く。けれど、曲が聞こえなくなった途端、小生の心から歌も曲もメロディも、音楽自体が生滅してしまう。
それこそ、音楽という電気仕掛けの人形のようなもので、オフになったら命も途絶え、心の動きも死に絶えてしまう、そんな人間になってしまった。
← 片岡義男/著『歌謡曲が聴こえる』( 新潮新書 ) 本書で気になったのは、15年戦争の終り頃、アメリカ軍による「空襲」を彼が「空爆」と表現していた点。なぜ? 意図的に空爆としたのか、最近は空爆がテレビなどマスコミで使われるから、なのか。気になる!
80年に何があったか、90年頃、何が起きたのかは、本ブログに縷々書いたので、今さら繰り返さない。
いずれにしても、バブルが弾けた90年ごろ、音楽シーンは完全に切り替わった。
その頃から、小生は流行りの音楽シーンからは取り残された。テレビでの音楽番組が減ったが、それでも少しはあったが、90年以降の音楽番組で歌われる曲のほぼ全ては、自分には無縁の世界、そもそも音楽にはなっていない音の無味乾燥な連なり、連なりですらない、騒音にしか聞こえなくなった。
もう、小生らは流行りの音楽シーンからは相手にされなくなったのだ。現実の音楽は、若い人しか相手にしていないと思えたのだ。もう、テレビからの流行曲は、他人事、絵空事、絵に描いたモチになってしまったのである。
それはそれとして、いつか、まとまった時間が取れたなら、80年代以前、90年以前の歌謡曲、流行曲の時代、自分がどのような気持ちで曲に聴き入り、思い入れたのかを、虚構の形で(だからこそ、直截に)描いてみたいと思う。
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