『日本の民家』から『渇きの考古学 』へ
今日も慌ただしく一日が過ぎ去っていく。何をしていたこともない日々。
隔日で働くものには、仕事の日の合間の一日というのは、実際、谷間の日であり、薄日すら差さない、どんよりした時間が流れるばかりなのである。
← 今 和次郎【著】『日本の民家』(岩波文庫) (画像は、「紀伊國屋書店ウェブストア」より)
隔日で働いています。
じゃ、今日は休みなんですね。
確かに今日は休みなのだが、事情の分からない、大概の人にはその谷間の日の過ごし方や時間の流れ方がまず、理解できない。
昨日は仕事、明日は仕事でも、今日は一日、たっぷり休みだと勘違いするのが普通である。
昨日も明日も、通勤時間や外出の前の慌ただしさ、丑三つ時前後に帰宅しての慌ただしさや疲労ぶりにはとんと、想像が及ばない。
丑三つ時(より早い帰宅の日もあれば、明け方の四時を回るときもある)前後に帰宅し、疲れが溜まっているのだが、すぐには眠れず、体には悪いと思いつつ、ソバなどで軽食を摂る。お酒を飲まれる方は酒を、たばこの好きな人は喫煙と相成るのだろう。
日中は忙しいので、帰宅してすぐにシャワーだったり洗濯を済ます。軽食を摂り、録画のテレビを観たり、だらだら(したくはないが、つい、そうなってしまう)した挙句、未明の四時ごろやっと就寝と相成る。寝つけなかったなら、睡眠薬代わりに本を手にする。
すると、覿面に寝入ってしまうから不思議である。
朝方の四時前後に寝入るから、お昼頃まではぐっすり眠りたいものだが、年のせいもあるし、睡眠障害のせいもあって、ほんの三時間ほどで目覚めてしまう。
尿意のせいもあるが、若くはない身なので、深い眠りからは縁遠いのである。
つまり、朝のNHKニュースをボンヤリ眼(まなこ)で見ながら、新聞を読んで早朝をやり過ごす。
小生の事情を知らない集金人や売り込みの人は、午前中にやってくる。小生が起きているのを観て、今日はお休みですかと訊ねるので、隔日で働いていて、今日は休みだと、冒頭の話が繰り返される。
大抵は、ああ、今日一日休みなんだなと理解して終りなのである。
→ スティーヴン・ミズン著『渇きの考古学 水をめぐる人類のものがたり』 (赤沢威, 森夏樹訳 青土社) 「有史以前から人類は水との戦いを続けてきた。 (中略) これからも続く水との戦いにおいて、私たちはその歴史から何を学ぶことができるだろうか。認知考古学の第一人者が綴る、人類と水とのめくるめく興亡史」だとか。書店で本を買おうとしたら、背後の新刊本紹介コーナーにあった。衝動買い。著者名、何処かで聞いたことがあるなと、思ったが、案の定だった。数年前、同氏著の『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化』(早川書房)を読んだことがあったのだ。 (情報や画像は、「 紀伊國屋書店ウェブストア」より)
さて、その日の体調によって違うが、昼前に食事し、食後すぐに眠ると体に悪いので、天気が良かったら、俄か畑仕事をして、腹ごなしをする。
汗を掻いたら、シャワーで汗を流し、軽い疲労を覚えつつ、リクライニングチェアーで仮眠タイム。
目覚めたら、買い物へ、あるいは銭湯へ。
気が付くと、夕方である。翌日は早朝、仕事なので、夜は早めに就寝することを心がけている。
隔日勤務の休みの日は、だから、二日分を眠り(当然である。前の日も次の日も20時間以上仕事なのだから!)、少なくとも三回、普通なら四回、食事をし、買い物や所用を済ませ、シャワーや入浴を二回し、組合の雑用や関連の外出をし、庭仕事や畑仕事をする。
要は、谷間の日は、自由になる時間など、数時間もないわけである。
好きな読書は、所要の合間合間に、それこそちびりちびりと齧るようにして読んでいる。体が疲労気味なので、ほんの数頁も読み進まないうちに寝入る…を繰り返す。日に仮眠を数回、摂るので、合計すると数十頁を読むことになるわけである。
ということで、今日は、今 和次郎著の『日本の民家』(岩波文庫)を読了した。
独特な味わいの本である。
<民家>という言葉を世間に広めたのはまさにこの著者の業績の結果だとか。
民家といっても、向井潤吉のように古民家の枯淡や失われた生活への郷愁を美として捉えて描くのではなく、かといって、柳田などの民俗学の対象として、風習や伝統、生活を学的に探究するのでもない。
民家を決して美の対象としては観ない。肥溜めや便所など、生活のありようを建物の構造を、その単純素朴から工夫の限りを尽くした民家まで、淡々と分析し描いていく。
かといって、小説の場面のように、庶民の生活ぶりを生き生きと描くというわけでもない。こうなると、文学になってしまい、やはり、著者のニヒルな目からはシャットアウトされる。
学の対象でもなく、美の対象でもない、庶民の暮らしの場や空間を、庶民の暮らしぶりを建物の構造や用具や土間や板の間、屋根の形、屋根を葺く板や瓦や藁などの使い方を淡々と細かく描くことで、読む方が勝手に想像を逞しくさせることで、示すのである。
人の生活の場の生の在りようというのは、表現しきれない。文学的小説的言葉を尽くしても、言語は意味をなさない。ただ、家の造作を細密に観察し、地域や風土や歴史で違う様相を描くことで、言葉にならない人の思いや暮らしを示すわけである。
← スティーヴン・ミズン著『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化』(熊谷 淳子【訳】 早川書房) 「20万年前の地球は、狩りをし、異性を口説き、子どもをあやす彼らの歌声に満ちていたことだろう。一方、ホモ・サピエンスではより明確に意思疎通するために言語が発達し、音楽は感情表現の手段として熟成されてきたものと考えられる」とか。(情報や画像は、「 紀伊國屋書店ウェブストア」より)
本書でも、著者の生の声は、ほんの一ヵ所しか漏れていなかった。
禁欲的というより、柳田民俗学の言葉でも、白樺派文学の言葉でも、あるいは美に傾斜することに拠っても、描き示すなどできはしない。できるのは、民家の構造や家の周りの畑や田圃や道や崖や池や川との関わりをデータとして指し示すだけなのである。
というか、データの開示で示すしかないと、開き直っているようでもある。
この文学にも民俗学にも美の網にも掛からない、微妙なアワイを描き切っているそのニヒルなほどに禁欲的な著者の姿勢が本書の味わいを独特のものたらしめているのだ。
本夕、本書を読了。今夜からはスティーヴン・ミズン著の『渇きの考古学 水をめぐる人類のものがたり』 (青土社)を読み始める。
出来心で買った本だが、面白そう。読むのが楽しみである。
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