アールブリュットの作家・澤田真一のことなど
来月に迫った定期大会の会場探し(下見)。ついで、会社へ。過日の選挙で、次期執行部体制の大枠は決まったものの、書記長が決まらず、その対策のため、そして会社で出会える人たちから意見を聴取するため。
会社でもグズグズしていて、結局、帰宅の途に突いたのは、あと十数分で六時という頃。
次期、執行部体制の大枠…。小生はとうとう執行委員長代行からホントに執行委員長となった。オレでいいのかと、みんなに聞いて回りたい気持ちだ。
→ 澤田真一作品の数々。画像は、「ボーダレス★“web”アートギャラリーLapoLapoLa(ラポラポラ) » Blog Archive » 澤田真一展」より。
さて、話は全く変わる。ネットでつい最近、知り合いとなった、お絵かきチャンピオン さんがまたまたネット上(ミクシィ)で個性溢れる作家を紹介していた。
「澤田真一」であり、「日本の抱える原始の天才アールブリュット」という触れ込み:
「ボーダレス★“web”アートギャラリーLapoLapoLa(ラポラポラ) » Blog Archive » 澤田真一展」
小生にはほとんど初耳の昨夏である。ほとんど、というのは、彼・澤田真一は、知る人ぞ知る存在なのである:
「ベネチア・ビエンナーレ自閉症男性、滋賀の澤田真一さん出展 緻密な陶芸作品、自然体で- 毎日新聞」
← ベネチア・ビエンナーレに出品される澤田真一さんの作品=高田真澄さん撮影 (画像は、「ベネチア・ビエンナーレ自閉症男性、滋賀の澤田真一さん出展 緻密な陶芸作品、自然体で- 毎日新聞」より) 縄文時代の、特に火焔土器などを連想させる。
アールブリュットの作家というと、日本でも西川智之や坂上チユキなどが知られている(「アウトサイダー・アート 魂の創造者たち」(求龍堂)など参照)。
アウトサイダー・アートというのは、「一般的には障害者など、特別に芸術の訓練を受けていない者の描く絵の総称」だ。
また、「アール・ブリュットとは、既存の美術や文化潮流とは無縁の文脈によって制作された芸術作品の意味で、 英語ではアウトサイダー・アートと称されている。加工されていない生(き)の芸術、伝統や流行、教育などに左右されず自身の内側から湧きあがる衝動のままに表現した芸術である。フランスの画家ジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet 1901-1985)によって考案されたことばである」:
「アール・ブリュットとは|ローザンヌ アール・ブリュット・コレクションと日本のアウトサイダー・アート アール・ブリュット/交差する魂」
このサイトでは、日本人作家として上記以外に、石野光輝 / 喜舎場盛也 / 小幡正雄 / 澤田真一/ 戸來貴規 / 辻勇二 / 富塚純光 / 本岡秀則 / 舛次崇 / 宮間英次郎 / 吉川敏明らの名前が紹介されている。
→ 末永 照和 (著)『評伝ジャン・デュビュッフェ アール・ブリュットの探求者』(青土社) (画像は、「hontoネットストア」より)
フランスの画家ジャン・デュビュッフェやその関連(ヴォルスなど)については、本ブログなどでも幾度となく採り上げてきた:
「ヴォルス…彷徨う線刻の美」
「アウトサイダーアート…あなたはもう帰れない」
「谷川晃一著『絵はだれでも描ける』」
「埒外のアーティストたち」
そのほか、「ディープ・スペース」と総称している、一連の創作(断片)の数々を参照願いたい。
ジャン・デュビュッフェなど アール・ブリュットの作家たちの作品にはどれほど創作意欲を掻き立てられてきたことか。89年1月24日から開始した創作活動の際も、デュビュッフェだけじゃなく、ヴォルスやタピエス、フォートリエらの絵を前に夜ごと、それこそ、丑三つ時に睡眠時間を削って、創作に励んだ。
← デイヴィド・マクラガン著『アウトサイダー・アート 芸術のはじまる場所』(松田和也訳 青土社) (画像は、「 BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト」より) この頁では、作家の荒俣宏氏による書評が読める。
それは、ある意味、今も続いている。
「アウトサイダー・アートのその先に」(03/10/15作):
(前略)しかし、もっとフワフワした、半熟卵のよ うにブヨブヨの感性が、そのままに壁面に、あるいは四角い額の中という陋屋に、 生の、形にならない未熟な、生傷から膿が滲み出すのも構わずに漂っているよう な気がしたのだ。
生きるためにはタフになる必要がある。感性を、理想を言えば柔軟にというか、 鞭のように撓るように養い育てられているのが、好ましいが、実際には、麻痺さ せたりすり減らせたり、現実から目を背けてしまったりして、やっとのことで生 きているのが大概である。
というか、感性を鈍らせていることに気づくことさえ、ない。
実際、世界は豊穣なのだというのは、構わないが、しかし、豊穣すぎて、消化 し吸収するどころか、その前に際限のない、豊穣さというのは、生きるには危険 すぎるのだろう。子どものままの感性があったりしたら、日常を生きることはで きない。それが許されるのは芸術家など、ほんの一部の人間の特権なのだろう。
大人になって子どもの感性を持つとは、日々、傷付くということ、生傷が絶え ないということ、傷口が開きっぱなしだというkとに他ならない。不可能に近い 生き方だ。それでも、バカの壁ではないが、既成の価値と感性という壁をほんの 一時くらいは、無理矢理にでも開いてみる必要があるのかもしれない。
胸の奥の価値の海を豊かにするためにも。
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