脂肪の塊
道路の反対側の雑踏の中でその人を見かけた。見かけた瞬間、あの人だ、という直感があった。
見間違いなんかじゃない。あの人だ。
けれど、その人はあっという間に人波に呑まれていった。
彼女を追う私の足も、行き交う車に遮られ、道路を渡った時には、見知らぬ人と素知らぬ人が通り過ぎていくばかりだった。
胸が高鳴っていた。息苦しいほどの動悸を覚えるのも久しぶりで、何か新鮮な感動すら感じるほどだった。
あの人がこの町に居るはずがないと、頭の中では誰かが告げていた。分かっている。でも、あの人を見たという切なる思いをどうしようもなかった。
週末だからだろうか、若い人たちの姿が多い。どうやら、大手町辺りでイベントがあるようで、電車で、あるいは歩いて、そっちへ向かうようだった。
そんな中、流れに逆行するようにして、私はあの人の影を追っていた。
あれからもう、何十年の歳月が過ぎ去った。私もあの人も当時の面影など見出しようもない。
自分でさえ、自分の変わりようにうんざりしている。まして赤の他人が見たら。
あの人もあの頃の若さなど微塵も残っていないはずだ。
お互いが熟年の憂さを託っている。色恋なんて、生活の侘しさの鉛色の分厚い舗装面の下で、息絶えて久しいはずだ。
なのに、あの瞬間、何かが私を突き動かした。何かが私の胸を貫いた。何も期待しないという習癖に慣れきった自分の厚い面の皮の下に幽かに残っていたらしい、青春の光を解き放そうとした。
あの頃、湧き上がる熱い思いに急かされて、あの人の家の周りを、あの人に初めて恋心を打ち明けた駅裏の小さな公園を歩き回った。一人で、あるいは二人で。
町の通りという通りを二人して歩いた。何処かの喫茶店に入るとか、レコード店に入るという知恵はまるで浮かばなかった。ありふれた恋なんかじゃないという、舞い上がった思いを持て余していたのだ。
何か真剣に追い求めていた。ただ、その姿は片鱗さえ見えない。明輪町から桜町、新富町から内幸町、本町から総曲輪、越前町や旅籠町、鹿島町から護国神社へ。
やがていつものように、県庁前の噴水のある公園へ。
ほとんど無言でひたすら歩き続けた。それがあの頃の二人のデートだった。
あの人が私を誤解していたように、私もあの人のホントの気持ちが汲み取れていなかった。お互いの気持ちがすれ違うばかりだった。言葉は空回りするだけ。あれじゃ、口数が減る一方に決まっていた。
何かが私に、あの人は県庁前の公園だと告げていた。四囲を並木に囲まれ、一面の芝生の中に大きな噴水がある。食事時以外は人の姿も疎らで、あの頃、公園では何故かいつも二人きりだった。それとも、周りが見えなかっただけなのか。
私は、駆られるようにして噴水公園へ向かった。あの人が公園の端っこのベンチに腰かけて私を待っている。
今の自分なら、あの頃のような失敗はしない。少しは大人になった自分のはずだった。
新富町と桜町の間の狭い路地を過ぎ、居酒屋や割烹、酒屋、風俗店などが軒を連ねる道を歩いた。昼間なので、清掃の人やら、暇を託つ営業マンがぶらついているだけの、閑散とした街並み。
イベントへ向かう若い子たちも、この道を選んだりはしない。
不意にバーのドアが開いた。太った女が箒と塵取りを手に、店の前を掃き出した。前夜のままの恰好なのか、それとも、常識からしたら早過ぎる営業開始のためなのか、生地の薄いドレス姿だった。余程濃い化粧を施さないと、ただのメタボな小母さんにしか見えないはずだ。胸元も露わなら、背中も正視できないほどに肌が露出していた。エロいというより、グロを感じさせた。女の肉というより、脂の塊、そう、脂肪の塊じゃないか。
私を一瞬、見たような気がしたが、周囲にゴミが落ちていないか確かめただけなのかもしれない。
あんなに年を取ってまで、女を売りにして商売するのか。夜になれば、あんな女でも、彼女を目当てに来る奴もいるのかもしれない。 女は私と目が合わないように掃除していた。嫌、誰とも目が合わないように、なのかもしれない。自分でも我が身を信じられなくなって久しいのかもしれない。
真昼間、さすがに素面の目では、誰もが我が目を疑い、目を背けて通り過ぎていく。
私もその一人だった。観なかったことにする。それより今は、あの人の面影を追っていた。先を急いでいた。早くしないと、脳裏に刻まれたはずの姿さえ、消え去ってしまいそうだ。か細くなるばかりの光明。昼間の蝋燭。
なのに、でぶった女の脇を通り過ぎる瞬間、妙な胸騒ぎを覚えた。きっと醜い姿を晒す女に対する嫌悪感に違いないと思った。
懸命になって女の脇を通り過ぎようとする自分を感じた。夢の中で、幽霊に追われて、必死になって逃げようとするのに、何故か空間が粘り付いて、飴のプールを掻き分け掻き分け前に進もうとする、そんな場面を想った。
過ぎ去っちゃいけない。そんな声が聞こえた。
それでも、ようやく女の姿が見えなくなった……と思った瞬間、あの人の影も綺麗さっぱり消え去ってしまった。
掻き消されるように望みが消えた。
大人げない幻想を追っただけなのだ。苦笑するしかなかった。一瞬の幻に夢を求めたにすぎなかったのだ。
私は路上で立ち竦んだ。一歩も動けなかった。最初から何もなかったのだ。夢さえ儚かったのだ。
気が付くと、私は魔窟の中に取り込まれていた。一層、粘着く脂の海で溺れそうになっていた。脂肪の塊女に抱きつかれていた。違う! 私が女にしがみ付いていたのだ。
昼間から、もう、好きねぇ、という声が気持ちよかった。これでいいんだ。私に似合いの女はこれなんだ。
私は自分にそう言い聞かせた。雑踏で一瞬、見かけた女は、この脂肪の塊女だったのに違いないのだ。
今の私に、他にどんな夢があるというのだ。
それにしても、この脂肪の塊女こそ、あの人だ、今こそ夢が叶っているという実感は、何なんだ?!
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