自由を求めて
誰だろう。あの顔、あの表情、あの目、あのオレを蔑視する冷たい目線、あの凍り付いたよう後ろ姿、いろんな表情が浮かんでは消えていく。誰もが現れた一瞬は救いの神のように映り、おずおずと手をさしのべた瞬間、忽然と消え去っていく。
嘲笑うかのようだ。オレが救われるなんて、愚かな考えを抱いたことを、罰するかのようだ。
谷底で呻いている。すべすべの斜面が美しい。磨きたてられた壁面がオレを嬲る。ツルツルの表面があの時のあの人の目線のように眩しい。
表情が読めない。透明なパイプの中で窒息しそうだ。誰かに触れないと、誰かに触ってもらわないと、オレはもう持たない。
淋しさのあまりの吐き気。気の狂いそうな沈黙の責め苦。窓の外からは、人や車の行き交う音が漏れ入ってくる。隣から、天井から、床下から人の話し声が聞こえてくる。そんなひそひそ喋らないでくれ。何か言うなら、もっとはっきり喋ってくれ。できるなら、オレも会話の仲間に加えてくれ!
オレは堪らなくて、天井に向かって叫んでしまった。オレは淋しい。オレは悲しい。オレは泣き潰れてしまいそうだ。オレはただ、誰かと触れ合いたい。オレは一人じゃやってられないんだ。
隣からも階下からも何も応答がなかった。さっきまで聞こえていた声さえ、沈黙の海に沈み込んでしまった。
居たたまれなかった。オレの声が聞こえないのか! 叫んでも風の音がむなしい。オレは壁を叩いてみた。さすがにこうまでしたら、何某かの応答があるに違いない…。
携帯電話があった頃は、登録されている相手に架けまくったものだ。滅多に相手は出てくれなかったけれど、架けている音が鳴っている間は、夢があり期待があった。
大概はそのうち、留守電になったり、お架けになった電話番号は現在、使われていませんとか、電話に出られない状態ですとか、そんな木で鼻を括ったような、素っ気ない声が流れる。そのうち、不意にプツンと切れてしまう。
その携帯も、今はない。カネが払えないんじゃ、どうしようもない。
今はパソコンだけが友達だ。いや、パソコンなんてただの道具だ。オレは、隣近所で友達が見つからないなら、せめて、ネットを通じて、世界と話し合いたいのだ。世界の数十億の人間たち。その中には、一人くらいは話し相手がいるに違いないじゃないか!
友達になってください、結婚してください、話し相手になってください、せめて話を聞いてください。
自分の部屋さえ、居場所ではなくなっている。息が詰まりそうな空間なんて、自分の部屋と呼べるはずがない。
外へ行こう、外へ。
外って、何処だ。オレはさんざん方々をほっつき歩いたじゃないか。何が見つかった? あるのは壁だけ。沈黙だったり、喚き声だったり、いろいろあったけど、要するに、壁だ。固い壁、ぷよぷよの壁、暖簾のような壁、何もない壁。
セロファンのような膜がオレを包んでいる。それとも、世界との間に仕切りとなって張られている。
オレはもう、大人なんて相手にしない。大人はもう心が死んでいる。もう形が出来上がっていて、オレの漬け込む余地がない。オレなど眼中にないんだ。視線の外へ外してしまう。追いやってしまう。オレを枠の外へ蹴り出してしまいやがる。オレは、古びたボールなんかじゃないのに。
オレはだから、女の子だけを相手にするんだ。女の子だけがオレの目を受け止めてくれる。柔らかなほっぺのような心がオレを和ませる。オレは女の子が大好きなのだ。
幼児は、可能性だ。閉ざされていない心だ。未熟な卵だ。
そう、オレは熟することを知らない心なのだ。何年経っても、形ができない。手も足も出ないままに大人って奴になってしまった。大人になる前に親には棄てられた。愛想を尽かされた。人間としての繋がりが不可能だと縁を切られてしまった。
オレは何一つ、学ぶってことができない。何一つ、身に付かない。オレは成熟って奴が分からない。ぶよぶよな心が、皮膚のない心が、骨格のない内臓が、路上に投げ出されている。オレは、路上に投げ棄てられた生卵だ。
生な心だ。世界が見えない。世界が形を見せてくれない。世界が目玉の垂れ下がった幼児に見える。腸の食み出した赤ん坊だ。
それとも世界は煮え滾る海だ。命が魂が沸騰する潮の流れの中で翻弄されている。オレは世界中に在る。オレは、世界の原子だ。バラバラの素粒子の雲だ。オレは遍在する。オレは局在する。オレは変幻する。オレは崩壊する。オレは相転移し損ねた世界の残骸だ。残骸の集合だ。離散した夢だ。雲散霧消する細胞のブラウン運動だ。
オレの救いは女の子にしか求められない。可能性があると感じられるのは女の子だけなのだ。
幾度、この思いに囚われたことだろう。幾度、挑戦を試みたことだろう。失敗続きだった。
でも、もう、くよくよするのはもうおしまいだ。
今日こそは成功させるのだ。
オレは、腐りかけた焼酎を飲み干した。魂を癒さないといけない。オレの魂だって、命を欲している。触れ合いに飢えている。血肉の滾りを欲して吠えまくっている。
さあ、出かけるのだ。自由を求めて!
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