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2014/07/20

無限のずっと手前という現実

 無限という言葉がある。概念と言うべきか。あるいは、哲学や宗教、物理、数学などの専門家はともかく、一般人たる自分には、ある種の感覚、あるいは印象としか言えないかもしれない。

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 もう、40年も昔、ある学生運動のリーダーとして活躍した、物理学の学生(院生だったか)は、学者としての将来を棒に振ってまで、運動に専心し、その後、学生運動が生滅してから社会復帰してからは、在野の学者として賞を貰うような著作(実績)をあげている。

 その人物について、何かの紹介の中で、彼は高校の図書館の本を全て読破した、という記述があった。
 小生はまさか、と思った。
 高校の図書館といえど、数千冊の蔵書はあるだろう。それを全て読破するなんて、小生には到底、考えられなかった。

 小生は、大学へ進学した。大学には全国でも有数の蔵書数や質を誇る図書館があった。
 折々、図書館へ迷い込んだりもした。
 埃っぽい書架から一冊を抜きだし、机に向って読む。静まり返った館内。何人かの学生が黙々と本を読んでいる。本に向っている。
 彼は一生、本に論文に研究に向き合う暮らしを続けていくのだろう。
 根気のない小生は、やおら立ち上がって、また書架を観て回る。文学や思想哲学、法律、経済、物理や生物、古代史に考古学、社会学、政治、ありとあらゆる本があった。
 ありとあらゆる本があると感じられた。
 だが、全国有数の図書館とはいえ、あらゆる本や資料が揃っているわけではない。何たって、国立国会図書館なんて、怪物もある。
 自分の能力がさほどあるはずもない。学生時代の一時期、授業もさぼり、アパートの一室に籠って、読書三昧に耽ったことがある。外出するとしたら、図書館での返却や借り出し、食事くらいのものか。
 それでも、年間、二百冊を超えるのがやっとだった。
 でも、有能な人の話を聞くと、年間千冊だって読むという。しかも、何処かに閉じ籠ってとかじゃなく、社会人としての仕事をこなし、家庭人としても暮らしながら、その片手間にそれほどは読むという。
 年間千冊。ってことは、あの天才とも謳われた学生運動のリーダー的存在だった彼。高校の三年間で、三千冊くらいは読破したって、何ら不思議じゃないわけである。
 大体、小学生や中学生の頃にも相当程度、読書は進んでいるわけで、図書館のある程度の本は高校に入る前に既に読んだようなものなのだろう。
 しかも、大事なのは、読んだ本については、大体が頭に入っているという現実である。

 中学や高校の体験で、自分には本を一度読んであっさり内容が頭に入るなんて体験はない。
 自分の乏しい能力や想像力、生きてきた狭い現実から得たものさしで人を測るなんて、論外だったわけである。

 
 マンガの本だって、お気に入りってこともあるけど、繰り返し読む。ということは、読むたび、感動を新たにし、ああ、こんな細部もあったのかと発見もあったりしたのだろう。

 教科書など、授業で触れ、予習か復習で目にし、試験前に目を粉にして眺めるが、それでも、平均点をゲットできたら、上出来な小生なのだ。
 今、読んでいるジョン・D.バロウ著の『無限の話』(松浦俊輔訳 青土社)には折々、ボルヘスの話題が出る。無限しの蔵書のある図書館。嘗てあり、今生、ありえるだろうことの全てが蔵書のどれかに必ず書いてある。
 超人的な記憶力の持ち主だと、本は一度読んだら中身が頭に入る。年に数千冊の本を読めば、数十年の人生で、十万冊の本も頭に入るのだろう。

 驚異。だが、十万冊であろうと、此の世の蔵書の全てではない。まして、これから書かれるだろう本も、かつては存在したが戦乱などで焼却された本は読めるはずもない。
 際限のない蔵書のある図書館を隅から隅まで物色して回ること自体、無限の図書館では叶わない。目次や蔵書目録を読み通すこと自体も叶わないはずである。その目録は、題名や著者名、出版社名、刊行年代などが記してあるのだろうが、蜿蜒と続く目次の文字数は、数十万冊分の本の活字の数を上回るはずだ。
 しかも、そもそも、この世の出来事、あるいは此の世に生きる人の思い、この世界の生きとし生ける生物の全て、自然界の現象のどんな細部をも、天才的な表現者理解者の能をもってしても、活字に置き換えられるのかどうか。

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← ジョン・D.バロウ著『無限の話』(松浦俊輔訳 青土社) (画像は、「楽天ブックス 無限の話 - ジョン・D.バロウ - 4791762584 本」より)

 世界はかつてあり、今もあり、今後もあるのだろう。その世界の深さ広さ複雑さ。無限とは云わないとしても、際限のない美と醜と均衡と変化と腐敗と再生とに満ちている、世界の果てのなさ。
 そんな大仰なことは考えないとしても、目の前のほんの些細な現実自体が、理解することも掴むことも、あるいはその中で生き尽くすことすら、叶わないと感じる。
 知的な体力も気力も、現実に圧倒される。
 無限などと言うまい。その前に、目の前の些末な現実をどうしよう!

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