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2014/04/06

月を眺める猫

 ボクは猫を眺めていた。ベランダの手摺に凭れて、息を潜めるようにして、 猫を眺めていた。
 猫の奴は眺められるのに馴れている。それとも、ただ、ボクに無関心なだけ なのかもしれない。
 でも、そんなんことはどうでもいい。大切なことは、猫を眺められる、心行 くまで猫の姿を楽しんでいられるという、そのことだ。

 あいつがオスなのかメスなのか、未だに分からない。
 何しろ、近づいて触ってみたことがないんだから。尻尾を持ち上げて、その 辺りを調べれば分かるんだろうけど、いいんだ。オスだろうがメスだろうが、 猫には違いがないんだし。

 あいつは…きっと…瞑想に耽る老いたオスの猫だ。

 老いているのかどうかも、ボクには分からない。ただ、あの落ち着き払った様子を見ると、人間だと悟りの境地に行ってしまったような年齢でないと、決 して得られないと思うのだ。
 その猫が現れるのは、夜の8時頃と決まっている。何処かの庭先から、のっそりと出て来る。時折、舌なめずりしているから、餌ももらい、食後の一服を 過ごしているのだと思う。
 猫は、晴れた夜にしか見ることが出来ない。雨の日は、一体、どこに潜んで いるんだろう。それが目下のボクの謎だ。

 そうだ、猫の奴は、晴れた夜、それも月の出た夜でなければ、その場所にや って来ないのだ。
 だから、ボクは、奴は夜の月を愛でるために、そのブロック塀の曲がり角に やってくるのだと思っている。日中は、日溜りになっているから、その一角は、 熱が残っていて、きっと、ぬくぬくしているんじゃないかとも思う。
 ただ、不思議なのは、月の出る晩に決まってやって来るにも関わらず、猫の 奴は、一端、鎮座すると、もう、月を見向きもしないことだ。目だって閉じた ままだ。全く身動きさえしない。

 これって、寝ているってこと?
 そうなのかもしれない。

 でも、ボクは、猫の奴は薄目を開けて、思い出したように月の行方を追いかけているんだと思っている。月の動きは鈍いから、じっと眺めている必要はな い。そこが分かっているだけでも、猫の奴、賢いと思う。
 ボクは飽きっぽい人間だと思う。というより、飽きっぽいものが人間なのか もしれない。猫だって、きっと、その点は人間と似ている。だから気が合うの かもしれない。
 それでいて、妙に、物思いに耽ることもある。眠気とも、夢見心地とも違う、 何か不思議な瞑想の天使が舞い降りてきて、ボクを、そして猫の奴を、天上の 世界へ誘う。目も心もボンヤリさせておくと、そのうちに猫とボクとの二人だ けで、藍色の宇宙を漂っているような気になってくる。
 いつか、夢の中で見たような海の底深くを潜っているような気分になる。ボ クの体がふわっと浮いて、猫と一緒に宇宙を旅する。

 きっと、ボクに猫の持つ逞しい想像力があれば、宇宙の彼方へ旅立ち、数え きれない物語を体験できるんだろうけど、でも、ボクは臆病なんだ。想像の世界でさえ、羽ばたくことができない。どこかにしがみついていないと目さえ開 けていられない。
 もしかしたら、だからこそ、ボクは猫が好きなのかも知れない。猫の奴は、 きっと、薄目を開けて、幽冥の境をどこまでも漂っているに違いない。月の光 さえ、背中に浴びている。月さえ、奴の従者なのかもしれない。夜空に煌く星々だって、そうなると、猫に脚光を浴びせる小道具に思えてくる。

 青い月光が世界を別の宇宙へと変えている。昼間の世界が嘘のように思えてくる。誰一人、眺める人のいない、誰一人として邪魔する者のいない紺碧の海。
 ああ、ボクに勇気があれば、昔の誰かのように銀河の鉄道を何処までも旅す るに違いないのに。
 透明な藍色の闇に敷かれた軌道。その凍て付いた鉄のレールに耳を押し当てると、向こう側の世界の響きを感じることができる。ここにいてさえ、ボクに はその懐かしい響きを聴いているように思える。
 近所の兄さんが呪文のように唱えている言葉が不意に耳の奥で鳴った。
 

私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ

 猫の背中の柔らかき光の輪。産毛のような猫の毛。見えるはずもないのに、 息衝く猫のお腹が感じられてならない。あの猫の奴の背中を一度でいいから、 撫でてみたい。猫に寄り添って、猫の夢見ているに違いない夢を覗いてみたい。 この世の化粧を洗いざらい落として、素の自分を世界に晒してみたい。
 そうだ、ボクは裸になりたいのだ。
 こんなにもボクが好きなのに、猫の奴は、一度だってボクに関心を払わない。 そもそもボクがいることに気付いていないのかもしれない。

 ボクの片想い。ボクの胸がどれほど熱いか、奴に教えてやりたい。きっと、 ボクの懐は、あの日溜りの名残しかない一角より暖かいに違いないのに。
 ボクは、とうとう我慢がならず、猫の背中に触れようとした。猫の背中の和 毛(にこげ)に頬擦りしたくてならなくなったのだ。ベランダの手摺から身を 乗り出して、猫のほうへと手を差し出した。遠くて届くはずはないのに。
 すると突然、綿帽子のような和毛が数本、猫の背中から抜けて、ボクのほう へ飛んで来た。そして、ボクの鼻をくすぐったのだった。
 ボクはくすぐったくて、つい、クシャミしてしまった。そして、勢いあまって、落っこってしまったよ。


                          (「猫 月を眺める」(03/06/06)より)

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