楽しみなような、怖いような
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
我が家の近所の家の庭には、白木蓮の木が一本ある。四月早々だったか大ぶりの真っ白な花が開花。
花びらが散るごとに路上に舞う。時には我が家の庭にも舞い込んでくる。
開花が済むと、葉っぱが芽吹いてくる。
「開花しているときの風景は、白い小鳥がいっぱい木に止まっているように見える」(「季節の花 300」より)のは誰しものようで、小生も以下のような句を詠んだことがある:
白木蓮小鳥の憩う宵ならん
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
人知れず鼓(つづみ)鳴らせし風ならん いかにも路傍にひっそりと生えているたんぽぽ。誰にも聞こえないような鼓の音が風に紛れていく。ちなみに、「江戸時代にはタンポポはツヅミグサ(鼓草)と呼ばれていた」。 4月22日
→ 裏庭のたんぽぽ 帰郷して間もない五年前の春に撮影。 (画像は、拙稿「たんぽぽの句? 苦?」参照)
吾輩の書く句は、あくまでただの句です。季語は意識してもこだわりはしない。季節感のなくなってきた今日、言葉への感覚も変わるはず。ただただ気ままに句作する。 04/21
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
今日も荒れた畑の整地作業。一昨日までのうららかな晴天とは違って、昨日からは三月下旬の寒さが戻ってきている。麦わら帽子をかぶって作業する身には、かえってそのほうがありがたい。
→ 過日、岩瀬浜へ行く機会に恵まれた。咸臨丸の壮挙を想いつつ、富山湾の海を眺める。
が、一歩、家の中に入ると寒い。一昨日、灯油のポリ容器は納屋に仕舞ったし、現に使える暖房器具は、電気ストーブだけ。午後、たまらずに使い始めてしまった。
ドクダミの巣窟と化していた荒れた畑の土の掘り起こし作業も、お蔭様で今日で終了(やや無理やりだが)。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
今日もほぼ無風快晴。お出かけ日和。でも、吾輩は家事。庭仕事に畑仕事に精を出す。
昨秋に駆り落とした枝葉などは庭の方々に溜めて放置したままだった。
それを袋詰め。
← チップ・ウォルター (著)『人類進化700万年の物語―私たちだけがなぜ生き残れたのか』( 長野敬/赤松眞紀 翻訳 青土社) 今日から読み始める。 (画像は、「紀伊國屋書店ウェブストア」より)
袋は、これまた昨秋までに刈ったり毟ったりした雑草を詰めて庭の隅に防草シート代わりに置いてあったビニールの袋を使う。
雑草を詰めた時点では、目いっぱい、それこそ袋を縛るのがやっととうほどに詰め込んであった。
| 固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (0)
富山は今日も快晴だった。やや風があったが、それがまた気持ちいい。
こんなに晴れ続きというのは、ちょっと富山らしくない。特に今年は冬の間も、晴れ渡って、立山連峰の雄姿がくっきりという日が多かった。
← 高橋松亭 『市野倉(いちのくら)』 「(1922.2 Size (H x W) cm:24.0 x 36.4 Image Source: Robert Muller) 小生は市野倉に住していた。子母沢寛が住んでいた子母沢とは隣り合っている。(画像は、「Shôtei.com Shôtei Gallery」より。高橋松亭のことなら画像も含め、ここ!)
冬の北陸(富山)というと、鉛色の空、曇天続きというのが当たり前のはずなのだ。
晴れて嬉しくないわけはないが、例年と違う気候というのが気にかかるのである。
今日も、畑や庭仕事に精を出した。前日の営業が意外なほどに忙しく、帰宅が未明の三時半過ぎ。ビスケットだけ齧って、一時間以内には寝床に潜り込んだ。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
今日も昨日に続き、快晴。しかも、やや風があったので、外仕事していても気持ちがいい。
二週間に一度の連休なので、過日、畑の土起こしや肥料撒きも終えたことだし、ナスやキュウリなどの苗を植えようと勇んでいた。
← ローレンス・クラウス著『宇宙が始まる前には何があったのか?』(青木薫訳 「無から有がなぜ生まれたのか? 最先端の量子物理学は、いまや宇宙誕生の謎を解明しつつあります」だって。ホントかな。宇宙像の大転換期にあることだけは、確かなようだ。今日未明から読み始めた。 (画像は、「文藝春秋BOOKS」より)
が、ガーン、である。ホームセンターには目当ても苗が売っていない。あるのは、ブロッコリーやキャベツ、ハーブなどばかり。
少々早いのかと、昨年の本ブログを捲ってみると、今月の二十日頃に苗を植えている。
そうか、まだ、焦らなくてもいいんだ。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
ボクは猫を眺めていた。ベランダの手摺に凭れて、息を潜めるようにして、 猫を眺めていた。
猫の奴は眺められるのに馴れている。それとも、ただ、ボクに無関心なだけ なのかもしれない。
でも、そんなんことはどうでもいい。大切なことは、猫を眺められる、心行 くまで猫の姿を楽しんでいられるという、そのことだ。
あいつがオスなのかメスなのか、未だに分からない。
何しろ、近づいて触ってみたことがないんだから。尻尾を持ち上げて、その 辺りを調べれば分かるんだろうけど、いいんだ。オスだろうがメスだろうが、 猫には違いがないんだし。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント