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2014/02/16

漱石「模倣と独立」と公募展

 昨日の朝刊で、「<全日展>架空人物に知事賞か 少なくとも12県 - BIGLOBEニュース」といった記事を観た。

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← 裏庭の椿。デジカメのファインダーの不調で、変な写真に。

「東京都豊島区の任意団体「全日展書法会」が主催し文化庁などが後援する書道中心の公募美術展「全日展」で、岐阜、福島、山形など少なくとも12県の知事賞受賞者が架空の人物だった疑いがあることが毎日新聞の調べで分かった」というもの。

 詳しい情報は上記を観てもらいたいが、「架空の人物が知事賞を受賞していた疑惑の発覚に各県の担当者は驚きを隠さないが、毎日新聞の取材によれば、審査をすることなく知事賞を出すケースが大半だったとみられ、ずさんな実態が浮かんだ」というお粗末ぶりには、呆れる。

 と、書いてみて、今さら呆れるなんてのも、白々しいのかもしれないとも思う。

 それは、昨年秋、「日展審査で「不正発覚」と朝日スクープ 美術関係者「あ~あ、そこは秘密ってコトだったのに」 - BIGLOBEニュース」なんて記事(や報道)が、流れたのも記憶に新しいから…ではなく、ある意味、そんなことは公然の秘密だったではないかと思われるからだ。

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 そんな折、昨日、「詩と真実 ちくま哲学の森 6」(筑摩書房)の中で、夏目漱石の「模倣と独立」なるエッセイを読む機会があった。
 本稿は、「1913(大正2)年、第一高等学校における講演。道徳、芸術、社会などにおいて人は常に「模倣」(イミテーション)をする。一方で人間は「独立」(インデペンデント)していてスペシアルなものである。人はこの両面を持つが、日本に必要なのは他国の模倣ではなくインデペンデントだと説く」といった趣旨の文である。
 幸い、青空文庫で全文を読むことができる:「夏目漱石 模倣と独立
 小生は上掲の本で読んでいるのだが、今回、青空文庫版で読んで、冒頭の部分が割愛されていることを知った。

 さてこの「模倣と独立」の始め辺りで、漱石は、文展のことを貶している。
「文展を見に行きました。それで文展を見てチョッと感じました。どうも私は文部省の展覧会に反対をしたり、博士を辞したり、甚(はなは)だ文部省に受けが悪い人間でありますが今度の文展も公には書きませんでしたが、どうも大変面白くありませんでした」で始まる。
「どれを見ても面白くない。唯面白くないといっても分らぬから、訳をいわなくちゃならんが、どれを見てもノッペリしている。ノッペリしているという意味は御手際おてぎわが好いというので、褒ほめているのかといえば、そうではない。悪く言う意味で、御手際が大変好いのです。言葉を換えていえば、腕力はある、腕の力はある。それじゃ何処が悪いかと言えば、頭がない。頭がなくて手だけで描いている。職人見たようなものである」などと続く。
「唯ノッペリとしている。例えばシミがなく、マダラがなく、ムラがなく、仕上げが綺麗に出来ている」とか、「文展の絵を見てどっちの方の紳士が多いかというと、人格の乏しい絵」だとか。

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← 表の庭のツゲの列。雪吊りや雪囲いはさぼってしまった。その代り…

 あるいは、洋行帰りの画家の帰朝展を観て、「他人の描いたようなものはいくらでも描くんですが、それじゃ自分は何所どこにあるかというと、チョッと何所にあるか見えないような絵を展覧会で見せられました」とか、「外国から帰った人の絵を見た。それは品ひんの宜よい、大人しい絵でした。それで誰が見ても、まあ悪感情を催さない絵でありました。私はその中の一つを買って来て家の書斎に掛けようかと思いました。が、止よしました」などと書いている。
 まあ、公の場での講演なので、彼なりに言葉を控えているようだが、どう見ても、ボロクソである。
 興味の湧かれた方は、青空文庫の「夏目漱石 模倣と独立」を読んでみてほしい。

 正直、日展に限らず、県展などの公募展には、多くの方が似たような印象を抱かされてしまうのではないか。
 ああ、決まった権威のある人物(老体)のおめがねに叶った、お手際の好い(人物の)作品しか入選は叶わないのだろうなーと、つくづく感じさせられる。
 技術はそれなりに修練や研鑽の跡が見られて、上手くはあるのだろうけど、芸術作品を前にしたという感銘だけは決して覚えることはないのである。
 きっと、例外はあるのだろうけど。
 芸術なんて、ホントは伝統に則った(もはや歴史の一部と化した)過去の作品はともかく、今、作られつつある作品は、現状を打破するものでないと意味がないと、小生は思ってしまう。
 少なくとも、敢えて見るに値しないだろう。

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→ ネットを被せて、雪囲いの代わり。枝葉が身を寄せ合って雪の重みに耐えてもらう。

 積み立てた年金や貯金の額の立派さに、積み重ねた年齢の多さに、ははーと這いつくばるわけじゃなく、その気概や営為の底の情熱や凡人には到底覗き込みえない深淵を垣間見させてくれるから、わざわざ時間を割いて、作品に対峙するのだ。
 それにしても、公募展の性格ってのは、明治の昔から(あるいはその前から?)変わらないのだとしたら、今後も、ほとぼりが冷めたら、やはり、年功序列と権威を錦の御旗の儀式は続いていくのだろうなーと思わされる。

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コメント

夏目漱石ですね、去年、夏目漱石の美術世界展という大がかりな展覧会がありましてね、漱石のみた美術作品と、それに対する漱石の批評を知ることが出来るのですが、漱石というのは、好き嫌いの落差が激しく、たいていの画家の作品はけんもほろろに貶しているのですね。
公募展は、その性格上誰でも出品出来る訳ですが、なぜ書に関してだけ不祥事が続いて報道されるのか?
一応、日展は、他の部門は不世なかったということになってますが、さてどうか?
こうなると、実績のない若い人が公募展から足が遠のく。

投稿: oki | 2014/02/16 21:36

okiさん

漱石は自分の意見をはっきり言う性分なんでしょうね。
まあ、全日展の不祥事の報道と、漱石の文章を読んだ偶然があったので、ちょっと書いてみました。

不祥事は、篆刻そして書のようですね。良し悪しが分かりづらい、あるいは一般に馴染みが薄いから、不正の生じる余地が大きいってことなのかな。あるいは関係者(出品者)が少ないってことも大きいのかな。

公募展じゃなく、やる気のある若手だけで展覧会をやるってのも、難しいか。
せめて審査員を権威だけの年寄りじゃなく、目利きの方にお願いする…なんて、云うのは簡単だけど、そんなに多く、各地域に批評家がいるとも限らない。
要は、今回の不祥事の露見は、日本の文化の貧困さの証だってことですね。

投稿: やいっち | 2014/02/16 22:09

架空の人物に知事賞とは、摩訶不思議な…。
実力でとるものではないんですね。
不透明な選考が明るみに出たような気がします。
エッセイの世界でも、のっぺりした作品が高い評価を得ると思います。
減点の少ない、無難な作品が多いですね。
それが世に出てどうなのかと問いたいです。
漱石に一票(笑)

投稿: 砂希 | 2014/02/17 20:32

砂希さん

ご存じのように、父は読売書法展に何度も出品していました。
入選も何度か。秀逸や特選にもなったことがある。
某先生に付いていましたので、結構、気を使っていたような。
あと一度か二度、入選したら、先生(審査員)になれる段階に来ていたとか。
最後の段階で病に倒れ、心残りだったようです。
先生に付いて本場中国へ研修旅行の機会があったのですが、事情があって行けなくて、それがマイナスポイントになっていると悔いていました。
ホント、気を使っていた。

父は凝り性なので、真面目にコツコツ、篆刻の勉強をしていました。

父のファンもいて、何かの書を書くと、父に印を作るよう、依頼してくれていました。
家族(親族)で外食に出かける際も、一人残って、頼まれた印を彫っていたものでした。

身内びいきですが、父にこそ、審査員になってもらいたかったなーって。


それはそれとして、書や絵などにはドラマ性も必要なのでしょうね。
例の耳が不自由のふりをして、絶対音感で作曲していたと詐称していた奴がいましたが、一般に人は作品にドラマを読み取りたがる。
ゴッホにしても、ゴーギャンにしても、ピカソや、日本では、裸の大将の山下清とか、思い入れしたくなる芸術家を贔屓にしたくなる。
作家と俳人、文学者と画家が仲間になり、青春物語風なエピソードを残し、それが作品の箔になったりする。
まあ、人間だもの、仕方ないですが。

投稿: やいっち | 2014/02/18 03:52

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