断食芸人の末期の言葉
昨日、車中にて、カフカの『断食芸人』を読んだ(ちくま書房の「詩と真実 ちくま哲学の森 6」に所収のもの)。
カフカは若い頃から自分なりに親しんできた作家。大袈裟な表現を駆使したりしていないのに、気が付くと文学(人生)の深淵へ導かれている。
← 「詩と真実 ちくま哲学の森 6」(筑摩書房) 小生が読んでいるのは、刊行された1989年のもの。書庫に残っていた。
長編もだが、『変身』などは幾度、読んだことか。大学時代、第二外国語がドイツ語だったので、二年か三年の時、『変身』の原書を読んだものである。
さて、この『断食芸人』は、カフカの作品の中でも有名だが、やや印象的に暗い、できれば目を背けたくなるような作風。
カフカにしては、生活臭じゃないが、何か生々しさ感が強く、読後の印象は強烈だが、カフカ論を試みる際には、敬遠気味に扱われそうな作品。
少なくとも、若い頃に何度か読んだ際には、そんな印象を抱いてしまった。
その「断食芸人」の末期の言葉は、「自分に合った食べものを見つけられなかった」(池内紀訳)だった。
原田義人訳では、「うまいと思う食べものを見つけることができなかったからだ。うまいと思うものを見つけていたら、きっと、世間の評判になんかならないで、きっとあんたやほかの人たちみたいに腹いっぱい食っていたことだろうよ」(「フランツ・カフカ Franz Kafka 原田義人訳 断食芸人 EIN HUNGERKUNSTLER」)である。
訳によって大分、印象が違う…。
家族か社会から余計者扱いされた…そのコンプレックスが織り込まれているのかと、つい、そんな安易な解釈を試みたくなる。
それとも、単に拒食症だったのか。
けれど、「断食芸人 - Wikipedia」によると、「作品中で描かれている断食芸はカフカの創造したものではなく、ヨーロッパでは19世紀後半から20世紀前半にかけて実際に断食芸の興行が行なわれていた。カフカはサーカスを観るのが好きで、この他にも芸人を題材にした一連の作品がある」という。
となると、慎重を期するためにも、解釈の際には、芸人を題材にした一連の作品を通読してでないと、まずいのかなと思う。
常識的には、断食芸人の死体が埋められた後、その檻には生命力に溢れた豹が入れられたわけで、断食芸人と豹の生命力との対比、つまり、檻の中にあって、断固、妥協を排する断食芸人と、己が檻の中にあることになんら不自由も感じることなく、「豹がうまいと思う食べものは、番人たちがたいして考えずにどんどん運んでいった。豹は自由がないことを全然残念がってはいないように見えた。あらゆる必要なものをほとんど破裂せんばかりに身にそなえたこの高貴な身体は、自由さえも身につけて歩き廻っているように見えた。歯なみのどこかに自由が隠れているように見える」その彼我の対比を発端に読み解くべきなのだろう。
というより、実を云うと、今回、この小説を読んで、最後に断食芸人の末期の言葉として、「自分に合った食べものを見つけられなかった」(あるいは、「うまいと思う食べものを見つけることができなかったからだ」)、さらには、「うまいと思うものを見つけていたら、きっと、世間の評判になんかならないで、きっとあんたやほかの人たちみたいに腹いっぱい食っていたことだろうよ」などと下世話な言葉を吐かれると、なんだか白けてしまう。
白けてしまった理由を自分なりに分析すると、結末の呆気なさもだが、それ以上に、こうした言葉は、小説に結末をつけるための、つまり小説を終わらせるための方便の言葉に思えてしまった、という点に原因がありそうだ。
自分だったら、この小説の結末をどう描くか、ほんの少し考えたくなったのだった。
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