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2014/01/21

祝婚歌のこと

 田舎に帰省する度、小生が居住する部屋に落ち着くと、目にする歌がある。 父の手で書かれたらしいその歌は、ご丁寧にも額に入れて壁に掲げられている。 それは「祝婚歌」という。作者は吉野弘氏。

 実は、小生がその一部の方には有名らしい歌の作者が吉野弘氏であることを 知ったのは、つい最近のことである。また、額に収められたその歌には、タイ トルとして「二人に」と書いてある。だから、当然のごとく、小生はそのよう に思っていたのである。

 また、手書きの歌には作者名が記されていない。つまり、作者不詳の「二人 に」という歌として眺めていたのだ。
 前書きが長くなった。まずは、有名らしいその歌を以下に掲げておこう:

    「祝婚歌」


  二人が睦まじくいるためには
  愚かでいるほうがいい
  立派すぎないほうがいい
  立派すぎることは
  長持ちしないことだと
  気付いているほうがいい

  完璧をめざさないほうがいい
  完璧なんて不自然なことだと
  うそぶいているほうがいい

  二人のうちどちらかが
  ふざけているほうがいい
  ずっこけているほうがいい

  互いに非難することがあっても
  非難できる資格が自分にあったかどうか
  あとで疑わしくなるほうがいい

  正しいことを言うときは
  少しひかえめにするほうがいい
  正しいことを言うときは
  相手を傷つけやすいものだと
  気付いているほうがいい

  立派でありたいとか
  正しくありたいとかいう
  無理な緊張には
  色目を使わず
  ゆったりゆたかに
  光をあびているほうがいい

  健康で風にふかれながら
  生きていることのなつかしさに
  ふと胸が熱くなる
  そんな日があってもいい
  そして、なぜ胸が熱くなるのか
  黙っていても
  二人にはわかるのであってほしい


 いい歌だと思う。二人がかのようにあったならと素直に思う。タイトルが仮 に「祝婚歌」ではなく、「二人に」であっても一向に構わないのではないかと 思ったりもする。
 しかし、小生は、少々複雑な思いを抱いてこの歌を詠んでしまう。
 この歌が、小生が帰省した際に居住する奥の角部屋に掲げられたのは、一体、 何年前からのことだったろう。少なくとも数年は経つような気がする。
 いい年になるまでずっと独り身の小生には、この歌はちょっと酷である。こ のようにありたいと思っても、相手が一人としていなかったし、いない小生に は、この歌は宝の持ち腐れである以上に、何か当てつけめいた感さえ覚えてし まう。小生の僻みである。
 父が、そんな意図を持っていたとは思わない。ただ、小生自身が不甲斐ない だけなのだけど。生涯の相手を欲しいと願わないわけではない。何かの信念が あって、独身を通しているなら、それはそれで一つの生き方なのだが、女性に は誰にも相手にされないで、一人ぼっちなのだから情ないばかりなのだ。
 父としては不肖の息子に何とか、このような相手にめぐり合って欲しいと願 ってのことなのだろう。
 その父は母と、既に数年前に金婚式の時をさえ超えている。彼らなら、「健 康で風にふかれながら 生きていることのなつかしさに ふと胸が熱くなる  そんな日があ」っただろうし、「なぜ胸が熱くなるのか 黙っていても 二人 にはわかる」に違いない。
 なのに、小生のこの体たらく。
 このような事情だから、小生は父にこの歌の由来・出典や作者名など詳しい ことを今に至るも聞けず仕舞いなのである。まして、何故に小生の枕の丁度頭 上の壁に、わざわざ額に入れた掲げられてあるのかなどとは、聞けなかったの だ。

                                (03/01/22 作


(「詩人の吉野弘さん死去 「祝婚歌」など」(朝日新聞デジタル)なる報に昨日、朝刊にて接したので、急遽、旧稿をアップした。)

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