島倉千代子さん こころの人よ さようなら!
今日は朝からどんよりした天気。極端に寒いわけではないが、昼に近づくにつれ、木枯らしのような風が吹いて、未だに取り払っていない、日除けのシートがバタバタ揺れて、肌寒く感じられる。
折々、雨も混じり外仕事は今日はしないと、茶の間のカーテンを開けた途端に決めてしまった。
→ 「島倉千代子 プレミアム ベスト2013 」 (画像は、「 HMV ONLINE - COCP-37998」より)
実際、組合の用事や買い物で外出した以外、外には出なかった。
夕方が近づき、今日は何を書こうかと、パソコンに向かった。
記事のネタでもないかと、ぼんやり注目のニュース(速報)という欄を眺めたら、いろいろ気を引くニュースや事件があるが、思いっきり目を奪ったニュースがあった。
何といっても、「島倉千代子さん死去、75歳=歌手、「人生いろいろ」など」( 速報:@niftyニュース)だった。
今朝、亡くなられたのだ。
75歳! 若すぎる。
自分の中の感覚では、小生がガキだったころから現役で活躍していたから、ずっと年上なのかなと思っていたのだ(失礼)。
「島倉千代子さん死去 75歳 紅白に30年連続出場」(朝日新聞デジタル)によると、「 「東京だョおっ母さん」「人生いろいろ」など、戦後の歌謡界で多くのヒットを飛ばした歌手の島倉千代子(しまくら・ちよこ)さんが8日、肝臓がんのため東京都内の病院で死去した。75歳だった。」とある。
肝臓がんでずっと入院中だったのだろうか。
ショックなのは、若すぎる年齢のせいではない。小生の大好きな日本の歌手の筆頭に挙げられる人だったからだ。
物心つく前から活躍されていて、「1950年、12歳、童謡「お山のお猿」がテイチクレコードから発売され」、童謡歌手としてデビュー…したはずだったが、誤植で「島倉千代子」のデビュー作とはならなかったという(以下、「島倉千代子 - Wikipedia」を参照)。
1953年、15歳、日本音楽高等学校へ入学。歌謡コンクールにも積極的に参加するようになる。1954年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、同社と専属契約。1955年、16歳、本名「島倉千代子」で歌手デビュー。デビュー曲「この世の花」(同名の映画の主題歌)は半年後に200万枚達成、人気歌手になった。
→ 『東京の人さようなら』は映画化され、島倉自ら主演した。(画像は、「島倉千代子 - Wikipedia」より) ああ、こころの人よ さようなら!
小生が生まれたのは1954年で、吾輩の生まれた前後に一気に開花していったわけである。
彼女の略歴で幼少期を見ると、「1947年、9歳、終戦。東京に戻る。姉:敏子は歌唱力があったが小児麻痺を患っていたために歌手にはなれなかった。大好きな姉のために自分が歌手になると決意。姉:敏子により声楽を学び、近所の「若旦那楽団」に入学。左手に負担の無いアコーディオンを担当。歌唱力があったためボーカルにも起用されていた」という。
こんな思いがあったことを今、初めて知った。
しかも、上掲の略歴に、「左手に負担の無いアコーディオンを担当」とあるが、「1945年、7歳、太平洋戦争のため長野へ疎開。井戸から水を運ぶ途中に転倒、水の入ったビンを割り、左手首から肘までを損傷」し、腕の切断の危機があったのだ。「切断は免れたが、感覚も無く、動かすことも出来なくな」っていた。
何といっても、彼女の歌が好きである。声もだし、綺麗に小気味よく回るコブシも、そのビブラートが心地いい。
滅多に日本人の歌手のレコード(CD)など買わない小生も、彼女は数少ない例外だ(美空ひばりさんでさえ、未だに入手していない)。
晩年は(何歳の頃から晩年か分からないが)、テレビで歌っても、声がちゃんと出ていないことに淋しい思いをさせられた。プロの歌手なら、声が出ないのに出演するな、という怒りより、彼女に恥をかかせたくないという一心だった。
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