オットー・ディクスのリアルなる闘争
← 出典3.bp.blogspot.com (画像は、「Otto Dix - オットー・ディクス 作品まとめ - NAVER まとめ」より)
一昨日の日記では、種村秀弘著の『魔術的リアリズム―メランコリーの芸術』(ちくま学芸文庫)を読み始めたこともあって、魔術的リアリズムを話題の遡上に載せるつもりが、新即物主義すなわち、ノイエ・ザハリヒカイトなる言葉に惹かれ、さらには、ネット検索していて、偶然、発見したジョヴァンニ・セガンティーニの世界に引き込まれていってしまった。
今日こそは、魔術的リアリズムというより、新即物主義(ノイエ・ザハリヒカイト)の画家のうちの一人、オットー・ディクスの世界を覗いてみる。
→ 出典www.waggish.org (画像は、「Otto Dix - オットー・ディクス 作品まとめ - NAVER まとめ」より)
「オットー・ディクス - Wikipedia」によると、「オットー・ディクス(Otto Dix, 1891年12月2日 - 1969年7月25日)はドイツの新即物主義の画家」である。
「大戦前後を通じてドレスデンにて美術を学ぶ。第一次世界大戦に従軍。戦争の悲惨さや、戦後ドイツの頽廃した社会情勢をグロテスクともいえる生々しさで表現する。また数多くの肖像画を残すがそれらも現実を徹底的に直視する写実精神をもって描かれている」という。
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本稿では、前段の「戦争の悲惨さや、戦後ドイツの頽廃した社会情勢をグロテスクともいえる生々しさで表現する」という面に焦点を合わせる。
但し、種村秀弘著の『魔術的リアリズム―メランコリーの芸術』では、後段の「数多くの肖像画を残すがそれらも現実を徹底的に直視する写実精神をもって描かれている」面が紹介されている。
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「新即物主義 - Wikipedia」によると、「過酷なまでの人物描写は魔術的リアリスムという言葉を生んだ。後に音楽分野にも波及したが、ナチスの台頭とともに退廃芸術として迫害を受け収束する」とのことだが、好戦的で、自己肯定を徹底して是とするナチスに嫌われるのも、当然なのだろう。
現実を直視するものは、常に嫌われ疎んぜられるのである。バブルに浮かれ、ノリがよく、空気を読む人が好まれる世の中というのは、何故か右翼的というかタカ派ムードになりがちなのは、悲劇なのだろうか、喜劇と思うべきなのか。
景気が上向けば、世の中、良くなる?
弱きもの、劣るものが貶められ忘れられていくだけではないのか?
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” 散弾銃で吹き飛ばされた身体なら、せめて肉片や血飛沫くらいは手で掻き寄せることができる。でも、仮想の粒子となった身心というのは、位相空間の中のほんの戯れの果てに、遥かな宇宙の空間に飛散する。<私>にはもう、デジタル空間の点粒子として生きるしか残された道はないのだろうか。
だとして、どうやって<私>へと凝集させたらいいのだろう。
ああ、飛び散ったペンキの飛沫の偶然性に己の実存を夢見た日よ何処へ。"
(引用は、「ディープスペース:ポロック!」より)
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" 無際限に透明でありながら、時空の原質的素粒子に満ち満ちている。闇の無辺大の圧力と物質の活動の余地をほとんど奪い去ってしまう、ほぼ絶対零度の時空の圧倒的な力で以って、破砕されては、やがてまた同じ時空の爆発的な重力によって微細な破片となった微粒子のなれの果てどもが掻き集められ、凝縮され結晶化される……そんな繰り返しの果てしなく続く静寂の宇宙。"
(引用は、「ディープ・スペース(1)」より)
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