富山県と北方領土
もう、一か月以上も前のことになるが、富山県の黒部市、その海辺の地区である生地地区へ行く機会に恵まれた。
生地地区のいろんなところを観て回ることができたが、ひょんなことで、やはり生地地区にある「漁業資料館」を覗く機会を持つことができた。
ネットで関連情報を探っていて気付いたのだが、ここは正式には「漁業資料館・伊能忠敬 宿泊の地」だとか。
資料館を訪れた際には、そんなことには全く気付かなかった。
館内では、受付担当(?)の方にわざわざ説明をしていただいた。
この館では、「加賀藩十村役、田村家の沿岸漁業の振興、明治期以降の北洋漁業関連の歴史を展示しています。古い漁業や北方四島開拓の写真展示など、あまり知られていない歴史を見ることができます。北方四島返還の署名をしていただいた方には、昔ながらの紙風船をお渡ししています」という。
富山県が北海道に縁が深いこと(北海道知事が富山県出身者だということに限らない)は富山県人なら知っている方も多いだろう。
が、富山県民が北方領土と縁が深いことを知っている人となると、多いとは言えなくなるのではなかろうか。
実は、「富山県は北方領土からの引揚者が北海道についで多い県」なのである。
北海道は地理的に分からなくもないが、何故に富山県なのか。
例えば、「北方領土「出前講座」のご案内|黒部市」によると:
明治の終わり頃から、北海道東部(根室、羅臼、歯舞群島方面)では昆布漁が盛んになりました。北海道では、富山県の出稼ぎ漁民は真面目でよく働くといってとても歓迎されました。その中には定住し、やがて独立して親方になる人も現れ、この親方を頼って富山県からさらにたくさんの漁民が出稼ぎに行くようになりました。大正になると、歯舞群島や色丹島に定住する漁民はさらに増え、昆布漁場を開拓していきました。このように、根室・歯舞群島の漁場は、富山県の先人によって開拓され、発展したと言っても過言ではありません。
富山県民は、昆布の消費量が日本一だが、昆布は北海道産に限るという人が(富山では)多い。
この昆布が北海道そして北方領土との絆の元だとは。
← あんか(行火) 船が揺れても熱い部分は安定している。
より詳しくは、「あなたの町と北方領土とのかかわり 富山県 独立行政法人 北方領土問題対策協会」が参考になる。
昆布に焦点を合わせているが、富山県の漁民が県外へ、しかも、北方のカムチャッカ(樺太)などへ進出するには、富山特有の事情もあったようである。
つまり、「富山県の海岸線は大変短く、その割には漁民は非常にたくさんいました。大正初めごろには、海岸線約4km当たりの漁民数は716人で、これは全国平均の2倍以上でした。したがって、ひとたび沿岸漁業が不振になると、漁民の生活の困窮はその極に達し」たのである。
→ イカ釣り用ランプ
富山県人が歯舞諸島に集中したのは、ここが根室に比較的近く、1877年(明治10年)代後半から根室へ渡った越中衆によって開かれましたこと。また、歯舞諸島でこんぶ採取、漁業を営むには、こんぶ干場の所有権か借地権を有し、歯舞、根室漁業組合の組合員であることが必要でしたが、出稼者たちは、富山県出身の道人から有利に干場や権利を借りることができたからです。
北方領土の特に歯舞諸島の「元島民は、ほとんど黒部市と入善町に集中しており、世帯数、人数ともに95%に及んでいます。黒部市では生地、入善町では芦崎地区に多く引き揚げて居住し、地域的には黒部川の河口をはさんだ沿岸漁村に集中してい」るという。
といった事情もあって、「北海道に次いで北方領土の元島民が多い富山県では、県内に住む居住者により1958年(昭和33年)に千島連盟富山支部が結成され、早くから返還要求運動が進められてき」たのである。
(以上、後段の引用は、「あなたの町と北方領土とのかかわり 富山県 独立行政法人 北方領土問題対策協会」より)
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