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2013/10/20

オースター『ムーン・パレス』再び

 昨日、ポール・オースター著の『ムーン・パレス』を読了した。恐らく、4年ぶりで、再読である。
 組合の定期大会が近付いていて、その準備に大わらわな中、時間を掻き削るようにして(やや大げさ)、数日を費やして読んだ。

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← ポール・オースター/著『ムーン・パレス』(柴田元幸/訳 新潮文庫)

 長編ではあるが、せいぜい500頁あまり。しかも、書き手はオースターなので、読ませる。読む手を置かせない。それなのに、結構、日にちを費やすことになった。最後はさすがに一気だったが。

 初めて読んだ時は、ストーリーの煩雑さ(初読の時はそう感じた。筆力に圧倒されて読み通した)にこの小説の性格が今一つ掴み切れなかったが、本書は紛れもなく、青春小説なのである。
 オースターらしく、ドンドン、意外性に満ちた展開を呈していくもので、その目まぐるしさに、置いてきぼりを喰らいそうになるが、今度、雑用の都合もあり、結果的に時間(日にち)を要した結果、皮肉にも、味読することができて、青春の喪失と旅立ちの予感の物語をオースターなりに示しているのだと感じることができた。

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→ 「Moonlight」(1885, the Brooklyn Museum) (画像は、「Ralph Albert Blakelock - Wikipedia, the free encyclopedia」より) 何処かハドソンリバー派の気味も残しながら、彼は彼の資質のゆえなのか、ずっと遠く離れた画境へと独り、迷い込んでいった。西部の悲劇。インディアンたちの血で贖われたアメリカの繁栄。 拙稿「オースターそしてブレイクロックの月(前篇)」参照のこと。 

 ちなみに、初めて読んだ時は、以下のような感想を呟いている:
 

 そうか、青春小説だったのか。ある意味、ゲーテやロマン・ロランらの教養ロマンの現代版のような。何処か寓話風でもある。都会という砂漠なんて、既に陳腐と化した文言があるが、ポール・オースターの小説には(中略)、アメリカの、特に西部を開拓していた頃の荒野の匂いが強く感じられる。
 しばしば西部が背景として描かれるからでもあるが、都会の光景を描きながらも、まるでそれがそれこそ摩天楼であり蜃気楼であり、ほんの二百年足らず前には原野か、さもなければ先住民たるインディアンの土地だったことが透けて見える、そんな感覚が幻視されてしまうのだ。
 乾いた詩情、そう、アンドリュー・ワイエスの描くような世界…。

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← 「Moonlight, Indian Encampment」 (画像は、「The Melancholy Landscape of Ralph Albert Blakelock 's Life [Selected Works]」より。

 上掲の絵では必ずしもないが、本書で狂言回しや小説のある種の深層のテーマを象徴する絵である『月光』の絵について(肝心の絵はネット上では見つけることができなかった)、作者は鑑賞する少年(主人公の少年時代)に以下のように感じさせている:

でも僕には、ブレイクロックがアメリカ土着の田園風景、すなわち白人がやって来て破壊してしまう以前のインディアンの世界を描いているように思えてならなかった。壁の銘板を見ると、製作は一八八五年。僕の記憶が正しければ、ちょうどランカスター最後の反撃(※白人側の全滅に終わった)と、ウーンデッドニーの虐殺(※インディアン一四六人が無差別に殺された)とのはざまにあたる年だ。いいかえれば、事態はすでに終局を迎えていて、ここに描かれているような風景を生き残らせようにも、もう手遅れになってしまっていた時期だ。きっとこの絵は、我々が失ってしまったあらゆるものを表わすべく描かれているのだ、と僕は思った。これは風景画ではなく記念碑なのだ。消滅してしまった世界を悼む挽歌なのだ。

 より詳しくは、拙稿「オースターそしてブレイクロックの「月光」(後篇)」を参照願いたい。

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