ヴァルター・シュピースのバリ風神話世界
16日、富山も10年に一度の規模だという台風26号のやや遠い影響を受けた。
未明から昼前にかけて、風雨がなかなかのもの。被害は甚大ではなかったが、けが人が出たり、リンゴなどの果樹に被害が出た。
→ ヴァルター・シュピース(Walter Spies)「風景とその子供たち(Die Landschaft und ihre Kinder )」(1939) (画像は、「Walter Spies Frame」より) 掲載した作品は、下に行くに従って若い頃へ遡る。
我が家にしても、雨よけ用に張ってある日除けシートが一部、剥がれたり、畑に張った防草シートが捲れあがったりしたが、心配したよりは大過なく過ぎ去ったと云えそう。
それより、明朝17の朝の冷え込みのほうが体に堪えた。この寒気も台風の齎した影響だとか。
それでも、午後には峠を越し、それと共に、午前中は目の回るような忙しさだった仕事も閑散となった。
だからというわけでもないが、昼前になってやっと朝刊が読めるようになったし、駅でも電車が来ないもので、待機しつつ本も読めるようになってきた。
← ヴァルター・シュピース(Walter Spies)「Scherzo für Blechinstrumente 」(1939) (画像は、「Walter Spies Frame」より) 「熱帯のジャングルを舞台にしたものが多数」あるアンリ・ルソーの画風を連想させた。
お蔭で、読むというより、挿入された画像を愉しんできた種村秀弘著の『魔術的リアリズム―メランコリーの芸術 』(ちくま学芸文庫)もついに読了。
本ブログでも何度か本書で紹介されている絵や画家を採り上げてきたが、今日は気になる絵ということで、ヴァルター・シュピース(Walter Spies)に焦点を合わせる。
少なくとも小生にとっては、初耳の画家である。
→ ヴァルター・シュピース(Walter Spies)「Blick von der Höhe 」(1934) (画像は、「Walter Spies Frame」より)
例によって、「ヴァルター・シュピース - Wikipedia」を参照させていただく。
「ヴァルター・シュピース - Wikipedia」によると、「ヴァルター・シュピース(1895年9月15日 - 1942年1月19日)は、ロシア生まれのドイツの画家。現代バリ芸術の父として知られ、1930年代バリ島におけるバリ・ルネッサンスの中心人物として活躍し、今日見られるような観劇用のケチャやチャロナラン劇をバリ人とともに創出した」という。
← ヴァルター・シュピース(Walter Spies)「The Death of Arya Penangsang」 (1929) (画像は、「Walter Spies Frame」より)
ヴァルター・シュピースは、「1895年、モスクワのドイツ人外交官を務める裕福な商家の次男として生まれる。音楽、舞踊、絵画教育を受けるなど裕福で恵まれた少年時代を過ごすが、第一次世界大戦中にはウラルの敵国人抑留キャンプに収容された。このときに遊牧民族の生活に触れた体験がきっかけとなり、アジアへの関心を高めた」とも。
さらに、「シュピースは画家としてはもとより、現代バリ芸術の父としても知られる。シュピースはドイツ語、ロシア語、英語、フランス語、オランダ語、ジャワ語、バリ語を流暢に操ることができ、彼のもとにはさまざまな国からの芸術家、学者が集まり、現地のバリ人とともに芸術サロンの中心を形成した」という。
→ ヴァルター・シュピース(Walter Spies)「バリ島の神話(Balinese Legend )」(1928) (画像は、「Walter Spies Frame」より)
「1920年代末にシュピースはバリのガムラン音楽を録音し、ニューヨークのオデオン社からレコードとして出し、さらには、1931年のパリ植民地博覧会では、バリのガムラン音楽と舞踊団、美術・工芸品を出展するのに尽力するなど、西洋へのバリ紹介でも大きな役割を果たした」し、「1936年に宗教儀礼劇としてのチャロナラン劇を観光客向けの商業用パフォーマンスとして組織させたり、サンヒャン・ドゥダリと呼ばれる宗教舞踊から観光用のケチャを創出・改良することにも深く関わった。このことからシュピースは、現代バリ芸術の父として知られる」のだが、その一方で、「西洋人の目によって「バリのバリ化」を進めたことで本質主義者から否定的に評価されることもある」とか。
観光面も含め、影響のあった人物は、校正の評価において、功罪も半ばするということか。
← ヴァルター・シュピース(Walter Spies)「Calonarang 」(1924) (画像は、「Walter Spies Frame」より)
「1942年1月、日本軍の侵攻により、ほかの収容者たちとスマトラ島パンダンから移送船に乗せられ、セイロン島へ移送されるべく出航するが、途中日本軍機の攻撃を受け、インド洋上に没した」というから、日本とも悲しい因縁があるわけだ。
なお、「Tjampuhan の Walter Spies が使っていた部屋への道 - YouTube」では、表題のTjampuhan の Tjampuhan の Walter Spies が使っていた部屋への道への道や、まさに Walter Spies が使っていた部屋(家)を観ることができる。
「終わりのない誕生日:ヴァルター・シュピース(Walter Spies, 1895–1942) - 三上のブログ」を参照するもよし。参考文献も紹介されている。
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