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2013/10/06

土星の暗喩の絵画

 車中では、相変わらず、種村秀弘著『魔術的リアリズム―メランコリーの芸術』(ちくま学芸文庫)をちびりちびりと読み続けている。
 種村の卓抜な批評も愉しんでいるが、批評文を読んでいるというより、挿入された画像(写真)を眺めている、というべきか。

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→ 種村秀弘著『魔術的リアリズム―メランコリーの芸術』(ちくま学芸文庫) 「1920年ドイツ。表現主義と抽象全盛の時代に突如現れ、束の間妖しく輝き、やがてナチスの「血と大地」の神話の陰に消え去った、幻の芸術があった。歴史の狭間に忘れ去られた画家たちの軌跡を克明にたどり、仇花のごとき芸術の誕生と死を通して、ある時代の肖像を鮮やかに描きだした名著」とか。

 せっかくなので、本書からほんの幾つかだが、気になった作品の紹介を試みる。
 魔術的リアリズムというより、あくまで新即物主義すなわち、ノイエ・ザハリヒカイト(Neue Sachlichkeit)なる観点を意識してのことである。

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← Giorgio Ghisi, 「Allegory of Life」, an engraving (画像は、「British Museum - Giorgio Ghisi, Allegory of Life, an engraving」より) 「本名ドメニコ・ディ・パーチェ。初期イタリア・マニエリスム美術を代表する画家、版画家、彫刻家」で、「版画制作においては、もっぱらキアロスクーロ効果の探求に専念した。ベッカフーミは銅版と木版を組み合わせた作品から出発するが、制作を重ねる度に銅版による線の領域は限られてゆき、ついには木版のみによって、豊かな陰影表現をもつ作品を制作するようになった。その芸術性は同時代の人々にもすでに認められており、ヴァザーリも賛辞を呈している」とか。(説明は、「所蔵作品検索|国立西洋美術館 ジョルジョ・ギージ / Giorgio Ghisi」より) 本書においては、「ラファエルロの夢」と題されている。「ハムレットのようにメランコリックな芸術家が忘却の河の水辺に立って夢想に耽っているty。近景の忘却の河(ステュックス)には、さながら創造の挫折を物語るように、怪物や骸骨や難破した小舟のような二目と見られぬ出来損ない惜し犇めいているが、後景には七色の虹と黄金の太陽が輝いている。創造の過程における芸術家の不安と確信という相反の共在。」(説明は、本書より)デューラーの「メランコリア I」を連想するもよし。挿入した画像が不鮮明なのが惜しい。

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→ Anton Räderscheidt(1892 Köln - 1970 Köln) 「Blumenstillleben」 (画像は、「Anton Räderscheidt - Künstlerdatenbank - VAN-HAM Kunstauktionen」より) 本書では、「薔薇にとまる蝶」(1921年)に焦点が当てられているのだが、ネット検索しても画像が見つからず、ほぼ同時期の本作品を載せた。


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← アントン・レーダーシャイト「薔薇にとまる蝶」(1921年) 種村は、「薔薇にとまる蝶」について、以下のように書いている。「およそ二十世紀の静物画のなかにあじっても、もっとも特異な静物画の一つではあるまいか。薔薇は三本の葉柄の束からなり、その一つに大輪の薔薇の花が咲いている。三つの葉柄の葉は春めいた若草色から晩夏の濃緑にいたる緑のさまざまの色彩階梯に彩られている。二匹の蝶が一匹は右下の葉柄にとまり、もう一匹はとんでいる。だが薔薇そのものは、暗色の背景のうちにあたかも虚無の只中に出現したように宙吊りとなり、自然の薔薇の開花から凋落までの移りゆきを表していながら、しかもなおこの薔薇そのものは枯れることなく不滅のものとしてとどまる、とでもいうかのようだ。いわばそれは、絶対零度において凍結された原理としての薔薇である。」(画像も含め、本書より。画像は、本書中のものを小生が撮影。本物とは言わないが、せめて鮮明な画像を観たい)。


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→ Grossberg 「夢像・回転子(……のようなノアの方舟) traumbild rotor」( 1927 (画像は、「categoryCarl Grossberg – Wikimedia Commons」より。この頁は、グロスベルクの作品画像が豊富) デューラーの「メランコリア I」の影響を受けていると指摘する批評家がいる。種村は次のように評する。「どこにもない場所の画は、もはやSF絵画に近い。同じく円筒と立方体からなる得体の知れない積木細工の組立ては、一つ一つの細部においては堅固に安定している。それでいてこの装置は無重力空間のなかを、おそらく前方に見える土星に向って浮遊しており、かりに重力場に遭遇すればたちまちバラバラに解体してしまいそうである。ちなみに回転子というのは、アントン・フレットナーが一九二四年に発明した無帆走船のフレットナー船の回転子のことで、画面では岬状に突き出した台座の上の二本の大柱がこれに当る。(中略)スタンリー・キューブリックの『二〇〇一年宇宙の旅』の宇宙船を先取りしたようなこの都市とも船ともつかない構築物は、洪水のような何かある大災害を逃れて新たなアララト山をめがけて航行中なのだろうか。モンス・デシデリオの描くような世界没落の光景。しかもまぎれもない技術世界の没落である。その廃墟の上にふたたび勢いを盛り返した自然。(以下、略)。」 本書には、土星=サトゥルヌスは自らの子を食う、それは時間を喰らう無時間を象徴するという土星の暗喩も含め、さらに突っ込んだ評がなされている。

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