穭田(ひつじだ)の脇を通って
ついさっき、買い物の帰り、近所に僅かに残っている田圃、そう、穭田(ひつじだ)の脇を通りかかったのだ。
稲の蘖(ひこばえ)であり、二番穂とも呼ばれる稲孫(ひつじ)を見ると、秋もいよいよ本格的なのかなと感じさせられる。
→ ちゃりさんサイト「ひとりごとの夕べ.句日記」に載っていた稲孫の携帯画像。
放っておくと、やがては刈ったあとの株から再び伸びる稲である、ひつじばえの状態となる…はずだが、その前に雪の季節が到来するのかもしれない。
おそらく、ひつじばえの田の光景を眺められるのは、雪解けを待つしかないのだろう。
この辺りの言葉を巡っては、もう8年も前となるが、拙稿である「稲孫(ひつじ)と蘖(ひこばえ)と」の中であれこれ詮索している。
← 稲作をやめて間もない頃の(かつては我が家のものだった)土地の光景。今は見る影もなくて、立派な畑となっている。
こだわったわけは、その当時、明治以来の農家だった我が家が稲作を放棄した直後だったからである。
我が家の田圃も、今は人の手に渡ってしまい、管理を名目に、近所の方々が分け合って、畑となっている。
そういえば、稲作を放棄した翌年だったか、以下のような句を作ったことがある:
昨年(こぞ)の田は夢かとばかり舞うトンボ (や)
せっかくなので、アンサーソングならぬアンサー句を一つ、捻ってみる:
畑に生うススキの穂にも田を想う (や)
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