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2013/09/24

『八月の光』に嗅ぎ取るべきは

 フォークナー作の『八月の光』を読んだ。河出書房版(!)世界文学全集の中のもので、訳者は高橋正雄氏である。
 買ったのは大学生となったばかりの年で、どうやら春休みに入ったこともあり、大作に挑んだらしい。

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→ 『シェファンクト近くのチョクトー族村』、フランソア・ベルナール画、1869年、ピーボディ博物館、ハーバード大学。描かれている女性はバスケットを作るためにトウの皮を染めている (画像は、「八月の光 - Wikipedia」より)

 悲しいかな読んだ記憶も印象も何も残っていない。前後して、『響きと怒り』も文庫本で読んでいるのだが、これも、記録にはあるのだが、自分には晦渋な作品だったというくらいの印象しか残っていないのだ。
 要は、あっさり、うっちゃられたというか、跳ね返されたわけである。

 驚いたことに、『八月の光』という大作を正味二日で読み切っている。最初の日は178頁まで、二日目は残りの260頁を一気に最後まで。
 今回は、ほとんど三週間ほどを要しているから、体力の差というのか、若気の至りというのか、気力の萎えというのか、感懐も一入どころか、今の自分が情けなくなる。
 但し、ゆっくり読んだ分、フォークナーの世界にどっぷり浸れたのは年の功というべきなのだろうか。
 ところで、本書に手を出したのは、莫言作『赤い高粱』(井口晃訳 岩波現代文庫)を読んで、感銘を受けたからである。

 その続巻を読みたかったのだが、近所の書店にはなく、それでは、莫言が文学の上で影響を受けたマルケスとフォークナーということで、フォークナー作品に手を出した…のだった。
 マルケスのほうは、訳されている本は多分、全部、一度か二度は読了していたこともある。では、次はフォークナーの番だ、というわけである。
 
 しかし、ふと、同じフォークナーでも、彼の代表作の『響きと怒り』ではなく、『八月の光』に手を出したのは、何故なのかなと思い始めてきた。
 あの暑かった八月の熱気冷めやらぬ時期でもあったから……?

 細かなことが気になる性分なもので…?

 本書の解説や「八月の光 - Wikipedia」によると、「フォークナーは当初題名を『暗い家』(Dark House )としようと考えていた」という。
「フォークナーが露台(ポーチ)で座っているときに、彼の妻が八月という月の南部の光が持つ異様な性質について感想を述べたと想像されている。フォークナーは原稿の置いてある机に走り、当初の題名を消して『八月の光』と書き直した。しかし、小説の筋は恐らく、光と八月という月が果たす象徴的な役割を与えられた創作である」とか。

 その上で、「フォークナー自身はその由来を次のように語っている」:

ミシシッピ州の八月には、月の半ばごろ、とつぜん秋の前触れのような日がやってくる。暑さが落ちて、大気に満ちる光は、今日の太陽からくるというよりも、古代ギリシアのオリンポス山あたりから差しこんでくる感じになる。…….しいて言えば、この"古代そのもののような光"は……子を産むために世間体や宗教的倫理などを気にしない女リーナと結びつくかもしれない。

 題名の『八月の光』というのは、実にいい。
 その一番肝心なミシシッピ州の八月の光、大気の感覚というのは、恐らくは現地に立てみないと分からないのだろう。
 あるいは、暮らしてみても、部外者などには分からないのかもしれない。

「ミシシッピ州は、アメリカ合衆国南部に位置する州である」。インディアン部族の部族語で「大きな川」を意味するミシシッピ川から取られているとか。
 にも拘らず、なるほど、南部の州ということで、黒人と白人の人種的軋轢や偏見、そこから根っこが掘り返されて原罪にまで問題が深められていく。

 それはそれで分からないでもないが、本書には先住民族であるインディアンの影も形も見えてこない。
 フォークナーにはインディアンなど眼中になかったのだろうか。
 南北戦争以後の白人には、黒人との軋轢、あるいは黒人を巡って争った南北の戦いの余韻や影響こそがホットだったということなのか。

 小生にその力量などはないが、ミシシッピ州という地を舞台なのなら、黒人と白人もだが、その前に徹底して虐殺され殲滅し尽くされ、フォークナーの時代には影が完璧なまでも消滅し去ったかのような、インディアンの怨念こそが、分厚い底層の岩盤として表現の俎上に登らせねば済まないだろう。
 そして、「八月の光」というとき、茫漠たる空無のような世界の乾いた空気の中に、嘗ては息衝いていたはずのインディアンの部族たち生活の名残りを嗅ぎ取らなければウソなのではないかと思う。

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← コリンスの戦い後の南軍兵の死体、1862年10月5日撮影 (画像は、「八月の光 - Wikipedia」より)

 先住民を抹殺して更地にして、その上に白人の、神の国を作り上げるという、とてつもない虚構。
 その虚構が八月の乾いた風や眩し過ぎる光を刺激にして物語として成ってくる…はずなのである。

「彼(フォークナー)の妻が八月という月の南部の光が持つ異様な性質について感想を述べた」という時、妻は流された黒人の血や涙だけではなく、その南部の乾ききった土壌に埃や塵となって混じっているに違いない、インディアンの血や肉や骨や涙の匂いをも嗅ぎ取っていて、だからこそ、南部の光が持つ異様な性質を呟いていたのではなかろうか。
 アメリカ文学の現状がいかなるものかは小生は知らない。が、アメリカの白人ら犯し血肉に刻まれている原罪の深さは、まだまだ語り尽くされていないはずなのである。

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