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2013/09/04

莫言…言う莫(なか)れ…もう、云えん

 朝方から午前中は、薄日も垣間見える曇り。段々、雨粒が混じってくるようになり、三時過ぎには強い雨、四時ごろには風雨。
 雨粒が屋根の瓦やトタンを叩く音が喧しい。しかも、暗い!
 夏の息の根を、それどころか、夏の猛暑なんて記憶の残滓をこれでもかというほどに絶やそうとしているかのようだ。

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→ 張藝謀「紅いコーリャン」((1987年 映画) (画像は、「張藝謀「紅いコーリャン」 Internet ZoneWordPressでBlog生活」より。内容についても参照するもよし。)

 昨日、ようやくというか、莫言作の『赤い高粱』(井口晃訳 岩波現代文庫)を読了した。仕事中に、止むを得ざる待機時間が生じ、遅々として読み進められずにいた本書の残りの130頁を一気に読めた。

 なかなか読めないでいたのは、仕事が忙しかったから…と云いたいが、さにあらず、初めて読む作家の本で、文体に馴染めなかったから、というのがホントのところだろう。
 それでも、最初の数十頁を堪えていると、段々、作家の世界、物語の世界に入っていける。
 少しは本を読み齧ってきた経験がこういう場合は活きるものだ。
 独自にあるいは、中国の党の中の学校で切磋琢磨して、文章の技術を練ってきたらしいが、『響きと怒り
』のフォークナー、『百年の孤独』のマルケスに圧倒的な影響を受けたのが作家としての転機、メタモルフォーゼの契機になったようだ。

 かくいう小生、若い頃に既にフォークナーの本を『響きと怒り』や『八月の光』などと読んでいたし、マルケスも『百年の孤独』だけは読んでいた。
 が、悲しいことに、特にマルケスの書は、まるで雲を掴む…というか、生臭く薄暗い、そう薄汚いような世界に突き落とされて、無我夢中だったという印象だけで、味読できたのは、ずっと後年の二度目の際だった。一気にマルケスの世界に魅了され、刊行されている訳書の大半は図書館から借り出して、やがて、敢えて買い揃えて読破していった。
 もっと若い時代に魅了されていたら、早くに小説を書くことに影響を受けることができたかもしれない。

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← 莫言作『赤い高粱』(井口晃訳 岩波現代文庫) (画像は、「赤い高粱 - 莫言-井口晃 - 紀伊國屋書店ウェブストア」より) ちなみに、筆名の莫言(ばく げん、モー・イエン)は「言う莫(なか)れ」を意味するとか。「もう、云えん」ってのも、味がある。
 
 フォークナーなどは、例えば、『八月の光』などまる二日で読破している。長編なのに。
 多分、『百年の孤独』もメルヴィルの『白鯨』も、かなりいろんな大作も、腕力というか体力、若さで読み倒したもののようだ。そうそう、トーマス・マンの『魔の山』も、七十年代、小生が二十歳代の頃に読み通していた。
 が、訳が分からないままに通り過ぎて行った。作品のほうが、小生を!

 幸い、これらのいずれも、やはり四十代になって、未読できた。自分の読解力がやっと作品群の一端に触れ得るほどには成熟した…のだろうか。
 一方、ドストエフスキーのように、十代からその魅力の虜になり、彼の小説は長編短編を問わず、全て全作品を最低3回ずつは読破している作家もいる。
 肌が合うということなのか。
 あるいは、トルストイのように、若い頃、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』を読んで、魅力を感じたし、素晴らしいなと思いつつも、ドストエフスキーほどには打ちこめなかったのが、年齢を経るうちに徐々にその世界の深さに馴染んできた作家もいる。
 逆に、四十代になって、その魅力に初めて接し、魅了されたジョージ・エリオットやポール・オースターらの作家もいて、出会う時期が微妙に自分の中の文學世界の広がりに関わっていることを痛感する。

 さて、莫言は、旧日本軍の侵略で中国の民が塗炭の苦しみを味わったことをプロテスト風に描くような、安直な作家ではない。彼は、1976年に人民解放軍に入隊。軍隊に在籍しながら作品を発表しはじめるのだが、『赤い高粱』にしても、「赤い高粱 ごみつ通信」さんの評されるように、抗日の戦いを描いているようで、実はさにあらずの気味が濃厚である。

 党にあって作家たるには、鎧を纏う衣は選ばないわけである。
 結構したたかななのである。

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→ 「紅いコーリャン」のイメージを知りたくて画像を探した。本画像は、「赤い高粱 ごみつ通信」さんのブログ記事から勝手に拝借しました。小生のような雑談の多い感想文ではない、同サイトの丁寧な書評と併せ、参照願います。ちなみに、コーリャン(高粱)は、中国での古い呼称で、モロコシ(蜀黍、唐黍)のことだとか。「モロコシ - Wikipedia」参照。

 彼は、例えば、中国の纏足という風習を早くから指弾しているし、日本人の蛮行も描くが、本書ではそれ以上に、中国人の水滸伝風な英雄譚的側面も描いて痛快だったり、碌でもない中国の民をもえげつなく描き切る。
 国の内外を問わず、描きべきものは描くのである。
 文學手法において、フォークナーやマルケスらに影響されているというのも、人間の聖と俗の混濁した現実を描き切る格好の表現手法だったということなのだろう。
 中国という共産主義国家において、作家たることは至難の技なのだろう。少なくとも、心に本物の作家魂を持つ者には。

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コメント

やいっち 様

今晩は。はじめまして。

拙ブログの記事をご紹介いただいて恐縮です。(^-^;
TBも有難うございました。

私もTBさせていただきました。
高粱の写真は私もネットから拾ってきたものなので、全然OKですよ。( ^ω^ )

有難うございました。

投稿: ごみつ | 2013/09/05 00:04

ごみつさん

わざわざ挨拶、ありがとうございました。
本作は、さすがの傑作でした。
多くの日本の方にも読んでもらいたいと思っています。

投稿: やいっち | 2013/09/09 21:06

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» 赤い高粱 [ごみつ通信]
紅高粱家族莫言 著 岩波現代文庫 ISBN 9784006020798☆☆☆☆ [続きを読む]

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