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2013/09/10

電子の雲にまみれて

(前略)自然の摂理という人間の知恵を遥かに超える天上の星。
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 それが、ダーウィンの思想の登場、非ユークリッド幾何学の出現、生命や物質の 論理や構造の科学的探究の方法の萌芽などによって、自然はかって思われていたよ うな人の手の及ばない世界ではなく、むしろ場合よっては理解可能であり、それど ころか手を加えることさえ可能であることが露見してしまった。生命は今も依然と して神秘的ではるが、神秘そのものとは思われなくなった。生命の奇跡のそのほん の端緒であろうと、再現さえ現実のものとなりつつある。圧倒的な勢いで進行する 科学の肥大は、人間を人間たらしめる前提を崩し始めているのだ。

 もはや、自明のもの、知の探求の及ばない領域はないかのようである。あるかも しれないが、海の水に絶えず浸食され後退しつづける砂浜なのである。われわれは 昔は大地の上に立っていた。が、今は絶海の孤島がせいぜいである。海とは、勿論、 科学の知であり、数式であり、化学式であり、論理であり、つまりは、飛躍的に増 殖する知の網であり、かっては私が私と言うとき、自明であったはずの領域の全て なのである。

 今は体だって、自分の心だって考えたり治癒する時には、自分が関与できる領域 は限りなく点へと縮小している。遠い昔、知は宗教だけだった。それは祭祀だった。  が、それがやがて宗教と哲学と文学に分離した。宗教は信じることから始まる神 への畏敬だったし、哲学は信じることを留保する上での神への問いだった。文学は、 信仰を表現する崇高なる目的があったにしろ、その表現するという営為そのものの 中に既に、信仰からの離反の予感を漂わせていた。

 やがて、哲学から科学が分離するのは理の当然だった。その科学が一個のまるご との自然学であり人間学であり宗教論だったものが、あっという間に諸学へと分化 していった。
 その分化は、志がどうであろうと、つまりはわれわれの身体と精神の分化でもあ った。ここにいる平凡なる私が自分のことを理解しようと思っても、もはや、心理 学を知らずに心理は語れず、医学を知らずに身体を扱うことは無謀であり、技術を 知らないで道をあることは目を瞑って歩くようなものなのである。

 科学の際限のない分化・細分化は、一個の丸ごとの人間の際限のない細分化以外 の何物でもないのだ。私とは、ここにいる、鏡に映るが如きような一個の全体であ り、大地に根ざした輪郭のある何かではなく、無数の諸科学の専門用語の総体なの である。この無力なる私には知のそれも不完全な欠片しか手に出来るはずもなく、 結果として私は、私ではなく、私に姿が見えるはずもなく、鏡に映っているのは、 ぼやけた旧弊な観念でしかなく、正確なる<わたし>の像は、専門家の手に委ねら れてしまっているのである。
 神は不在なのではなく、神への問いそのものが私の手から奪われてしまったのだ。 私が諸科学の肥大化した個別分野に解体され尽くしてしまった以上、私が私を問う こと、私が私を感じることさえ僭越なのである以上、いわんや神においておやである。

 私は、今やデジタルの情報の海に漂っている。無数の科学の知の海にバラけてし まっている。遺伝学も分子生物学も数学も化学も批評学も生理学も免疫学も心理学 も民俗学も考古学も、それぞれが細切れにされた私の居場所である。
 が、いつの日か、そうした個別化学の成果が寄り集まって総合され、私が再び一 個の丸ごとの人間であったはずの私に戻れるなどという幻想は、まさに幻想に過ぎ ないのである。

 科学は、その探求の手を休めることがあるだろうか。分析の手を鈍らせることな どありえるだろうか。更に蜘蛛の巣より細かな網のような極限的個別科学にならん とする勢いを止める手立てなどありえるだろうか。
 今も、私は無数の個別の、それも顕微鏡的に細密な科学の無数のプレパラートに 挟まれて観察され分析されている。それどころか、その切り刻まれた肉片さえ、も っと細かく引き千切られようとしている。そう、私は霧、私は雲、私は大気中の浮 遊塵だという所以である。

 それでも、性懲りのない私の中の何かは、疼いてやまない。専門家には、素人の 遠吠えに過ぎないのだろうが、でも、この全てが表層化されつつある社会の片隅に、 そう、ホームレスがやっとの思いで住処を捜すように、私は居場所を探す。私とは 一個の全体なのであり、それは科学の手の及ばない何かなのだと言いたくてならな い気持ちを抱えながら。
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 私にこの自分である私を感じ考え思う権利はないのか。専門家の手を借りなけれ ば何もできないのか。そうなのかもしれない。反論の余地などないのかもしれない。  それでも、電子の雲を必死になって掻き集めている。だって、誰が私に代わって 私のバラけて離散してしまった霧の粒子を集めてくれるというのか。
 しかし、それにしても、私の中の何が私をして、このように懸命にデジタル粒子 の雲を抱かせようとしているのだろう。

(「ジョージ・スタイナー著『言葉への情 熱』、あるいは、電子の雲を抱く」(02/04/27)より抜粋)

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祈りのエッセイ」カテゴリの記事

コメント

ジョージ・シュタイナーって、私はルドルフの間違いかと思いました。殆ど内容は人智学的な見解と変わらないのではないでしょうか?

投稿: pfaelzerwein | 2013/09/11 04:47

pfaelzerweinさん

本稿の内容は、ジョージ・シュタイナーには何の責任もありません。
小生の勝手な、瞑想的エッセイです。

投稿: やいっち | 2013/09/11 21:26

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