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2013/09/03

「おわら風の盆」与太話

 今月一日、越中は八尾(やつお)へ行ってきた。
 この日に八尾へ、というと、「おわら風の盆」の見物に、となるが、さにあらずである。
 無粋ながら、仕事で八尾へ行ったのである。

Owara_2013

→ 「おわら風の盆」(2013)ポスター(ポスター画像は、「越中八尾 おわら風の盆|気品高く唄い踊り継がれる、おわら風の盆。」より)

 車で会場の周辺は散々駆けずり回ったが、肝心の会場内へは、本番が始まる前に通りかかっただけ。
 いざ、祭りが始まる頃には、車は一切、シャットアウトである(地元の車は一定の便宜が図られているが)。
 なので、会場の遠くから、祭りが行われている、坂の町・八尾の会場をちらりちらりと眺めやるばかりだった。

 夕方ともなると、数知れない雪洞(ぼんぼり)あるいは行燈などに燈明が灯り風情あることこの上ない。
 闇夜に雪洞の列が幾重にも連なっている。
 祭りもいいが、こうして遠望して坂の町を眺めるのも乙なものだと、強がってみたり。

(以下、本稿には、肝心の祭りの画像(写真)がない。「おわら風の盆 その2 真夜中の町流し (9月1日~2日’12) - 徒然なる all over the World - Yahoo!ブログ」など覗いてみるもよし。尚、暮色に沈みつつある坂の町「八尾」の中心街を遠望する写真は、例えば、「まいまいクラブ - まいまい写真部 「風の盆」暮色)」など参照。)

 さて肝心の祭りである「おわら風の盆」は、その踊りや曲を評するに、「風情がある、気品がある、抒情性が豊か、哀調を帯びている、郷愁、哀愁に満ちた」といった言葉が呟かれることが多い。
 確かに(あくまで、テレビや現場でもほんのチラッと見た限りでは)、こうした表現を連ねるのが穏当だろう。

 祭りのホームページ「越中八尾 おわら風の盆|気品高く唄い踊り継がれる、おわら風の盆。」を覗いても、「涼しげな揃いの浴衣に、編笠の間から少し顔を覗かせたその姿は、実に幻想的であり優美で、山々が赤くもえる夕暮れを過ぎると、家並みに沿って並ぶぼんぼりに淡い灯がともります」とあったり、「それぞれの町の伝統と個性を、いかんなく披露しながら唄い踊り、その町流しの後ろには、哀愁漂う音色に魅せられた人々が1人、また1人と自然につらなり、闇に橙色の灯が浮かび上がり、誰もがおわらに染まっていきます」などとある。

Sscn5291

← 八尾から山田村に至る峠道の途中。道の随所に細切れの段々畑それとも田圃が垣間見える。

 大概の「おわら風の盆」の説明は、こうした哀愁を帯びた祭りの性格などを説明することに終始している。

 しかしながら、こうしたマイナー調の祭りは、「大正期から昭和初期におわらが大きく変化を迎え」たものだとは、どれだけの人が知っているだろう。
昭和4年、東京三越での富山県物産展に於ける公演をを契機に、おわらの改良がなされ、画家の小杉放庵、舞踊の若柳吉三郎が創った「四季の踊り」は大人気となりました。このときのおわらが「女踊り」「男踊り」として継承され今日のおわら風の盆にな」ったという。
 つまり、われわれが多少なりとも見聞きしえる「おわら風の盆」は、案外と歴史が浅いということだ(別に非難しているわけではない)。

 もともとはというと(といっても、「おわらがいつ始まったのか、明瞭な文献が残っていないためはっきりし」ないという)、かなり賑やかな祭りだった可能性があるという。

おわらの歴史は、元禄ごろから」によると:

「越中婦負郡志」によるおわら節の起源として、元禄15年(1702)3月、加賀藩から下された「町建御墨付」を八尾の町衆が、町の開祖米屋少兵衛家所有から取り戻した祝いに、三日三晩歌舞音曲無礼講の賑わいで町を練り歩いたのが始まりとされています。
どんな賑わいもおとがめなしと言うことで、春祭りの三日三晩は三味線、太鼓、尺八など鳴り物も賑々しく、俗謡、浄瑠璃などを唄いながら仮装して練り廻りました。これをきっかけに孟蘭盆会(旧暦7月15日)も歌舞音曲で練り廻るようになり、やがて二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う「風の盆」と称する祭りに変化し、9月1日から3日に行うようになったと言われます。

 転記文中にあるように、当初は「春祭りの三日三晩は三味線、太鼓、尺八など鳴り物も賑々しく、俗謡、浄瑠璃などを唄いながら仮装して練り廻」ったものだったらしい。
これをきっかけに孟蘭盆会(旧暦7月15日)も歌舞音曲で練り廻るようになり、やがて二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う「風の盆」と称する祭りに変化し、9月1日から3日に行うようになったと言われ」ている。

 上記したように、祭りの性格は、「大正期から昭和初期におわらが大きく変化」したものである。
 この変化に関わった、宗匠・高浜虚子、作家・長谷川伸、画家の小杉放庵、舞踊の若柳吉三郎らの洗練された趣味と嗜好がかなり加味されたと想像するに難くない。

 そもそも(これも定説はないが)、「「おわら」とは」の項にあるように、「一説では、江戸時代文化の頃、芸達者な人々は、七五調の唄を新作し、唄の中に「おわらひ(大笑い)」という言葉を差しはさんで町内を練り廻ったのがいつしか「おわら」と唄うようになったというものや、豊年万作を祈念した「おおわら(大藁)」説、小原村の娘が唄い始めたからと言う「小原村説」などがあ」るのだ。

Rscn5292

→ 棚田というほどはないが、段々の田が美しい。

 小生は個人的には、「江戸時代文化の頃、芸達者な人々は、七五調の唄を新作し、唄の中に「おわらひ(大笑い)」という言葉を差しはさんで町内を練り廻ったのがいつしか「おわら」と唄うようになったという」説が有力というか、説得力があるように思う。

「大正期から昭和初期」に(限らず)、大きく変貌する際に、この歴史を踏まえるなら、現行のマイナー調とは大違いの、それどころか、メジャー調も甚だしい、阿波踊りに匹敵するような、賑やかな祭りとして全国に勇名を轟かせていた可能性もあったわけだ。
 その代り、テレビドラマや演歌のテーマになったり、悲恋が売り物である小説の恰好の題材になったりはしなかったろうけれど。

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