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2013/09/08

プルーストの耳からバルトの箸へ

 肌寒い日々が続いている。そぼ降る雨が寒々しい。薄暗くて、逢魔が時でもないのに、人恋しい気持ちが募るような、淋しい風景が窓外に広がっている。
 雨だし、土曜日ということもあって、外を出歩く人も少ない。

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 ふと、いつもはガラス窓が少しは開いていて、網戸越しに人影がちらつくのが、この寒さと雨で窓が固く閉められていて、それがその気がなくとも、人を撥ねつけているように感じられる…だから、淋しさ寒さが一層募るのかも、などと思ったりした。

 土曜日、プルースト作の『失われた時を求めて〈5〉ゲルマントのほう〈1〉』を読了した(本書には、珍しく校正ミスがあった!)。

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← プルースト【作】『失われた時を求めて〈5〉ゲルマントのほう〈1〉』( 吉川 一義【訳】 岩波文庫) 表紙カバーには、「プルーストの描いた、尾羽を広げるクジャク」の図。本書の説明には、「草稿帳の1冊「カイエ12」のなかに、べつの加筆断章の挿入箇所を示すために描かれたデッサン(以下、略す)」などと書いてある。

 これで、既刊分は読み終えたことになる。
 これからは、年に二冊ほどのペースで出されるのを追いかけ手にしていくしかない。

 さて、本書の中で面白い記述に出合った(独自の観察と分析とその表現には毎頁のように遭遇する)。

 それは、下記の記述。
 体調が思わしくなく、睡眠を取ろうとするのだが、音に敏感になり、なかなか寝付けない。
 そんな中、想像の中の現象学的分析のメスは一層、鋭く振るわれてしまう。

 音に敏感…ということから、耳が完全に聞こえなくなった人の世界へ想像が及んでいく:
  

 ただし物音の消滅が一時的ではない場合もある。耳が完全に聞こえなくなった人は、すぐそばで湯沸しに入れた牛乳を温めるときでさえ、なかば開いた蓋の裏側に白く光るものが映るのを見張っていなければならない。そこに極北の光を想わせる白い光の反射が吹雪のように押し寄せると、この前兆に従うのが賢明というもので、波を押しとどめた主にならって電気のコードを抜き去らなくてはならない。というのもすでに沸騰している牛乳は痙攣しながら卵形に盛りあがり、いくつか斜めの隆起をつくって膨張を完成し、牛乳の表面に生じた膜のために皺がよって転覆しかけていた帆船の帆をまるく膨らませ、そのひとつを真珠母色にして嵐のなかに投げ出しているからで、しかしそんな帆船も、電流が遮断されて電気の嵐を未然に回避されれば、すべてその場でくるくる回りながらモクレンの花びらのごとくあてどなく漂うだろう。かりに病人がすばやく必要な措置をとらなければ、たちまち押し寄せる牛乳の高波のなかに本も時計も呑みこまれ、白い海原からわずかに顔をのぞかせるだけとなり、やむなく古株の女中に助けを求めると、病人自身が高名な政治家であろうと大作家であろうと、五歳の子供と同じほどに分別のない人と断言されてしまうにちがいない。(以下、略) p.164

9784480083074

← ロラン・バルト著『表徴の帝国』(宗 左近訳、ちくま学芸文庫) 拙稿「ロラン・バルト著『表徴の帝国』」参照のこと。

 実を云うと、転記したプルーストの上掲のくだりを読んでいて、ふと、ロラン・バルトによる(日本の)箸を使う所作を巡る、やはり現象学っぽい観察と分析の一節を連想してしまったので、敢えて比較してもらうために載せたのである。

 連想したといっても、似ているとかどうかではなく、ある位相を感じたまでのことである。
 現実のあらゆる事象について、常に独自の感性と知性とで、違和感や齟齬感の細大を遺漏なく表現し去る意思それとも資質を感じてしまったようだ。

 その記述は、ロラン・バルト著『表徴の帝国』(宗 左近訳、ちくま学芸文庫)の中で遭遇したもの:

 箸は、食べものを皿から口へ運ぶ以外に、おびただしい機能をもっていて(単に口へ運ぶだけなら、箸はいちばん不適合である。そのためなら、指とフォークが機能的である)、そのおびただしさこそが、箸本来の機能なのである。箸は、まずはじめに――その形そのものが明らかに語っているところなのだが――指示するという機能を持っている。箸は、食べものを指し、その断片を示し、人差指と同じ選択の動作をおこなう。しかし、そうすることによって、同じ一つの皿のなかの食べものだけを、機械的に何度も反覆して嚥み下して喉を通すことをさけて、箸はおのれの選択したものを示しながら(つまり、瞬間のうちにこれを選択し、あれを選択しないとう動作を見せながら)、食事という日常性のなかに、秩序ではなく、いわば気まぐれと怠惰とをもちこむのである。こうしたすぐれた知恵の働きのため、食事はもうきまりきったものではなくなる。二本の箸のもう一つの機能、それは食べものの断片をつまむことである(もはや西洋のフォークのおこなうような、しっかりと掴まえる動作ではない)。《つまむ》という言葉は、しかし、強すぎて挑発的でありすぎる(《つまむ》とは、性悪な娘が男をひっかける、外科医が患部をつまむ、ドレスメーカーのつまみ縫い、いかがわしい人間のつまみ食い、などをあらわす言葉である)。それというのも、食べものを持ちあげたり、運んだりするのにちょうど必要以上の圧迫が、箸によって与えられることはないからである。箸をあやるつ動作のなかには、木や漆という箸の材質の柔らかさも手伝って、人が赤ん坊の身体を動かすときのような、配慮のゆきわたった抑制、母性的ななにものか、圧迫ではなくて、力(動作を起こすものという意味での力)、これが存在する。(以下、略)

 似ている…というより、比べてみると、違いが際立ってしまう。
 でも、ふと連想というか、思い起こされてしまったのだから、仕方がない。

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