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2013/09/09

パソコンを書斎へ移動

 一昨日、パソコンを置いてある部屋を茶の間(居間)から書斎へ移動した。
 自分は生粋の(?)テレビっ子で、バカみたいにテレビに齧りつきたがる人間。

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← 過日、黒部の生地地区へ行く機会があった。久しぶりの海との対面。

 CMになると、あるいは番組(出演者)がつまらないとチャンネルをガチャガチャ(←古い!)切り替えながら、放っておくと、いつまでも見続けてしまう。
 それこそ見ないときでも点けっ放しにしていたりする。

 我が家にテレビが来たのは、昭和39年に東京オリンピックが開催される頃。近所では比較的早いほうだったと思う(といっても、近所には裕福な農家の方が多かったので、わざわざ我が家にテレビを観に来る人は居なかったと思う。そもそも田舎なので、テレビの普及も都会に比べれば遅かったようだ)。

 白黒のブラウン管のテレビで、それまで茶の間に鎮座していたラジオ(その脇の、一定の時間が来るとボーンボーンとその回数だけ鳴る大きな壁時計)から、その関心と注目の的の座を奪ってしまった。

 マンガ好きだった小生、外で遊ぶのも好きだった小生は、夕方ともなると、テレビの前から動かなくなった。
 テレビの前で、好きなマンガを読んだり画いたりするようになったのである。
 いわゆる、ながら族である。
 テレビを初めて前にした感動の仔細は後に改めて書くとして、マンガも本も読む小生は、テレビ(を観たいという誘惑の念)と心の中で葛藤するようになった。

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→ 時間があれば、灯台に登ってみたかった。

 テレビは見たいが外でも遊びたい、マンガはながらでも構わないが、本は静かな環境で読みたい、ということで時間の配分・割り振りを意識するようになった。
 というより、時間の過ぎ去る速さを実感するようになったと言うべきか。
 
 パソコンを茶の間で操作する習慣は、テレビもだが、電波との兼ね合いもあってのこと。
 誰もいない時間帯を狙ってパソコンを弄っていた。

 父母が相次いで亡くなったのは3年前のこと。
 家の中を整理して、茶の間もだが、父母が使っていた寝室や書斎も、使おうと思えば使えたのだが、やや抵抗感があってパソコンを父母らの部屋に移動するのは躊躇われていた。
 かつては父の書斎(作業場)であり母の化粧室だった、北側に大きく空間を取られていて、遮光カーテンを開けば、外光がたっぷり入る部屋。

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← 湾の対岸には、我が岩瀬の浜も遠望できるとか。

 北側の細長い庭や隣家の庭が塀越しにあって、その先は畑や田圃だったりするから、本を読むにしても、パソコンに向かうにしても、恰好の空間なのである。
 茶の間には、32インチの液晶のテレビがある。録画という便利な機能もあり、そもそも観たいと思わせる番組はニュース番組を除けば、極めて少なくなったから、必要最小限の番組を録画して、食事の際に観れば十分である。
 書斎(そして母の化粧室)は、父母らの暮らした、息遣いの感じられる、我が家の中の最後の聖域のようなもの。

 寝室には、理由があって(説明すると、かなりしんどい作業となる)父母が亡くなった直後から自分の寝室として利用するようになっていたが、書斎には踏み込めなかった。
 といっても、書斎空間は、3年前の時点で大幅に自分用に、箪笥も書棚の中身も入れ替えている。
 父の歴史ものや晩年打ちこんでいた篆刻関連の文献などは、大半を他の鉄道などの関連物品、遺されている衣服類などと併せ、遺品の部屋に纏めて置いてある。

 将来、小金が入ったら、我が家の隅の部屋、自分を含めて誰も滅多に入らない部屋を父母の遺品の部屋に模様替えするつもりでいる(願望にとどまったままなのだが)。
 パソコンを弄る部屋(空間)は、自分には創作の場でもあるわけで、茶の間ではなく、落ち着ける書斎が望ましいのは分かっていたが、いよいよ父母の聖域に踏み込んで、我が執筆の場とする覚悟を決めたのである。

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← 黒部の漁港。

(そもそも、パソコンはケーブルでつながれているわけではないので、その気になればいつでも、使う場を移動できる。
 やや大仰に茶の間から書斎に移動させる、などと言い募るのは、今年の梅雨始めの頃に、コピー機を導入するようになったことも理由として大きい。
 コピー機を使うのは、会社の組合関係の書類を作成する作業を担っているので、已む無く導入に至ったのである。
 昔はコピー機を持っていたが、故障したのを機に、2000年代に入ってからは、作成した文書は一切、印刷していない。
 そのコピー機までもが茶の間にあると、場所を取る。茶の間が狭苦しい…そういった物理的な事情も、パソコンを使う部屋の移動を決意する動機として大きかった。それまで、いつかは書斎でパソコンを使おうと思いつつ、のびのびになっていたのを、実行する後押しとなる契機になった。)

 遮光カーテンのみならずレースのカーテンもある、大きな四枚のガラス戸からは、ツゲや柿の木、ユリノキ、梅の木、南天などが居並ぶのが見える。若干、目障りな家は、遮光カーテンを必要なだけ閉めたままにして、視界を遮っておく。
 まさに書斎なのである。

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→ 海鳥がのんびりと。

 ガラス窓は、まず開けることはない。閉めっきり。なので、聞こえるのは、朝方などのスズメの鳴き声、あるいは折々の雨の音。気に喰わないのは隣家の親父の、近所迷惑なシワブキという騒音である。
 今日は父の月命日である。線香の煙や香を仏間に漂わせ、一人、仏壇に向かった。
 なんだか、結果的に、父の月命日に合わせて、執筆の空間を父の書斎に移動させたようなことになった。
 脳裏でそんなタイミングが図られていたのだろうか。

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コメント

うちもテレビ買ったの東京オリンピックの時と父が話していました。
テレビ珍しくて、近所の人が見にきたと。
そのオリンピックがまた東京に来る。今度はリニアモーターで、全国の人が東京に来るかな。
どうせの未来なら楽しい未来を夢見る、現実は福島原発の問題とかあるけど。
弥一さんは作家でしたね、パソコンも創作用具。
僕みたいなのはスマホで寝ながら気楽にやってますがー。
しかし、父が肺がんで長いこと闘病した寝場所が、その後母が寝るようになって、母もいなくなったらそこに僕が寝ている、不思議なもんだ。

投稿: oki | 2013/09/09 22:59

okiさん

白黒のブラウン管テレビがやってきて、感激。
そのうち、カラーテレビになって、またまた凄い! と。
その感激に比べたら、液晶とか4Kなんて、ただのモデルチェンジ。

そういえば、数年前、久しぶりに映画館で映画を観ました(「剣岳・点の記」)。
映画を見始めた瞬間、落胆しました。
映画はアナログ画面。液晶のきめ細やかな画面に慣れた者には、従前の映画スクリーンの映像は、雨降りだらけの荒い画像で、映画の中身に気持ちが入れなかった。

「父が肺がんで長いこと闘病した寝場所が、その後母が寝るようになって、母もいなくなったらそこに僕が寝ている、不思議なもんだ」 そう、順番は違うけど、同じ体験をしています。
父が最後に、我が家のベッドで寝ていた時、何を考えていたのか。
父は何も言わずに、さっさと去っていった。吾輩を見捨てるように。

投稿: やいっち | 2013/09/11 21:19

ここ暫くの投稿内容は衝撃的なものが多いですが、今回もTVとの関係でとても驚きました。もはやTVながら族とか付けっぱなしとかの時代は終わっていると思いましたが、読書家で物書きのやいっちさんの家で昔通りのTV世代の生活が展開しているとは。私の自宅の受信機は十五年ほど前に購入したものが椅子の後ろに隠されていますが、これが最後の受信機となることはどのような家庭環境であろうが変らないと思います。世界中何処に行ってもネットコンテンツとTVではもはや勝負にならなくなりました。勿論エンターティメントだけでは無しに報道性も含めてですが。

因みに先のロンドンのオリムピックで一度も動画を観なかったので、そもそもその祭典の意味が全く変わりました。恐らくTV放送を無視することで本来の意味が復活すると言うようなまるで歴史を逆行するような状況を私たちは経験するのです。しかしそれはTV放送と言う非常に社会的に問題のある歴史の一部であって、人々が脱TV放送を果たすことで世界は間違いなく変わると信じて疑いません。

映画との比較ですが、創作意図ということを別にすると、技術的にやはり光学映像と言うのは、本当の漆黒や光に最も近い表現であって、最近のデジタル技術の進化で大分補われてきたとは思いますがまだまだ勝負になりません。それでも、詳しくは知りませんが、アナログフィルムの制作すらもデジタル技術無しでは出来ないので、最終的に光学で映写するかどうかの違いだけとなってきているかと思います。デジタル撮影、デジタル制作、デジタル映写の最後の部分でまだ開発の余地があるようです。音響の世界でも長く議論がありましたが - 今でもスピーカーの殆どはアナログ -、容易に簡易にある程度の質が得られると言うことでデジタル化が進み、相対的にアナログよりもデジタルが価値を確立するのに時間が掛かりました。同じように、映画の大画面で、金と労力を掛けて条件さえ揃えば、アナログの綺麗なコピーの方が迫真の表現は可能ですが、全デジタル化徹底も時間の問題でしょう。同時に容易にオリジナルの大きさでの海賊コピー氾濫となります。

投稿: pfaelzerwein | 2013/09/14 20:25

それにしても富山湾の風景、とてもコートダジュールのカンヌやニース周辺などの地中海の風景にとても似ていますね - なぜか日本海の海は静か過ぎますが。北アルプスとあわせてまだまだ観光資源の発掘は可能と思います。

投稿: pfaelzerwein | 2013/09/14 20:29

pfaelzerweinさん

テレビに齧りつきたがりなのは今でもですが、テレビの点けっ放しは、昔の話です。

本を読むにしてもネットを遣るにしても、テレビはオフです。

ただ、いずれにしても、テレビは、小生のような平均的な知性のレベルの人間には、穏当なもの。
例えば、十数年ほど前までは、NHKの大河ドラマを見るほうでした(今はもう見ませんが)。
一方、小生の友人たちは、そんなものは一切、見ない。どうせ、ただのお話に過ぎないというのは、明らか過ぎるほど確かなこと。
知性のある人は、テレビ程度の情報伝達ツールなど、低すぎるわけです。
小生は、閉鎖的な人間で、情的回路が閉じていて、他人との交通が不得手。知的レベルからしても、テレビが穏当な情報ツールなわけです。

その辺りは、pfaelzerweinさんとは、やはり事情が違うところでしょうね。

映画というと、思い出すのは、帰郷後、富山で観た初めての映画「剣岳 点の記」のこと。
富山が題材の映画なので、話題になっていたこともあり、映画館へ。
十数年ぶりの映画館で観る映画。
期待はしていたのですが、映画が始まって、いきなり、カルチャーショックを受けました。
というのは、映画はアナログで、画面の粒子が荒い。
一方、パソコンにしろ、テレビにしろ、液晶で、きめの細かな画面です。
小生、映画の画面の肌理の粗さがずっと気になって、映画に感情移入がまるでできない、そのまま、映画が終わって、上の空で過ごした時間となってしまいました。

映画館の映画も、時代が映れば液晶か何か、肌理の細かい映像になっていくのでしょうが。

映画はともかく、止まるところ、情報の探求や検索は、その人の関心次第、能力次第で、どこまでも広がり得る。

情報の豊饒さ多様多彩さは、人の関心の多彩さとも相関していきます。
現代の音楽シーンでは、相当なヒット曲であっても、知っているのは、限られた年代や層に留まり、関心の広がりを呼ばない。
蛸壺的に関心の所在が局在化分散化する。関心の輪の際限のない分散化が進む。
オリンピックも、東京で開催されますが、東京では狂騒的ですが、富山に限らず地方では、冷めたものです。他人事。
オリンピックですら、こうですから、その他の関心事は推して知るべしでしょう。

投稿: やいっち | 2013/09/15 22:21

pfaelzerweinさん

富山に限らないでしょうが、日本海側(特に北日本)の海は、夏と冬の光景がまるで違います。二面性があると云っていいくらい。
冬の海は荒れて、凄まじい。

富山の海は、三千メートルの山から千メートルの深さの海へと一気。
吾輩には、房総の海へ来るまで、遠浅の海はまるで縁遠かったものです。

その意味での海の(太平洋側とは違う)光景にこそ、観光上の値打ちがあるでしょうね。

投稿: やいっち | 2013/09/15 22:26

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