スノッブ根性で三巻目へ
マルセル・プルースト著の『失われた時を求めて』を読み始めて一か月ほどが経った。
先月一か月を費やして、第一巻と第二巻を読んだ。
昨日、富山(北陸)地方にも梅雨明け宣言が出て、第三巻目を読み始めた。全体で14巻の予定らしいし、年内に第六巻目が出るとかで、翻訳本全部が刊行されるのも、まだ数年先なのか。
← マルセル・プルースト著『失われた時を求めて〈3〉花咲く乙女たちのかげに〈1〉』 (吉川 一義【訳】 岩波文庫) (画像は、「失われた時を求めて 3 - プルースト,マルセル【作】吉川 一義【訳】 - 紀伊國屋書店ウェブストア」より)
つまり、順調に刊行されるのを次々と読んでいっても、読了は数年先ということになる。
気の長い話。ま、それだけ楽しみが長く続くということか。
そもそも原書自体、「1913年から1927年までかかって刊行された」というのだから、読むほうも倦まず弛まずという気構えでいてちょうどいいのだろう。
「ゲルマント公爵夫人のサロンははじめ語り手の憧れの対象となるが、社交界に入り込むにつれてその皮相さ、浅薄さに気付いていくとともに、社交界を取り巻くスノビズムを徹底した怜悧な目で描き出していく」という。さらに、「徹底したスノビズムの描写は、おろかなもの、凡庸なものの中にも普遍性を見出すことができるというプルーストの考えの反映であり、またそのいくらかはプルースト自身の姿でもあった」(引用は、「失われた時を求めて - Wikipedia」より)とも。
→ フェルメール作『デルフトの眺望』。プルーストは1902年にもオランダのハーグ美術館でこの絵画を見ており、知人に宛てた書簡で「ハーグで『デルフト眺望』を見てからというもの、この世で最も美しい絵画を見た、と思ってきました」と書いている。(画像や情報は、「失われた時を求めて - Wikipedia」より)
実際、読んでいて、自分の背伸びしがちな、安っぽいスノビズムがこれでもかというくらい抉り出され、曝け出されているようで、身に摘まされる…などと書くのも、おこがましいことなのかもしれない。
尤も、年の功というのか、自分がどれほどのものか、少しは弁えているつもりなので、本性深く根付いているそれも、今は臆病で控えめなスノッブ(snob)に留まっている…はずである。
と言いつつ、スノッブ根性なくして何の表現者も成り立ちえないのでは、などと開き直ったりもする。
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