ありし日の郷里(序)
我が家から、住宅街などを一切無視しての直線距離で南へ1キロ余りのところを北陸本線が通っている。開通が1889年なので、我が父祖が当地に移り住んだ頃には、線路などなかったはず。
東へ直線距離で500メートルほどのところを、今のライトレール、当初は、富岩鉄道が通っている。開通は、1924年(大正13年)である。
我が家から東へ100足らずのところには、今で言う、富山県道30号富山港線(小生などは昔は、富岩街道と呼んでいた)が南北に走っている。富山市の中心部から岩瀬浜へ通じる街道(旧道)だったので、富岩街道と呼んでいたのだろう(正式名称かどうか、分からない)。
西へ直線距離で1500メートル行くと(実際には、住宅街や道路、多少の田畑を乗り越える必要がある)、富山市というか富山県の中心部を流れる一級河川である神通川がある。
父祖が当地に住み着いたころには、北陸本線も富山港線もなかったが、富山県道30号富山港線(富岩街道)はあったのかどうか、分からない。正式には、1955年の整備となっているが、旧道があったと仄聞する。詳しいことは、後日。
当然ながら、父祖が住み着いたころには、小学校も保育所もなかった。近所のお寺が境内(敷地)の一部を提供し、小学校が成った。
保育所は、我が家の敷地(田圃)の一部を提供してなった。その後、場所が変わってしまったが。
昔のこととて、分家する際にもらった田圃(だったのか、それとも荒れ地だったのか分からない)は結構な広さで、我が家の前にはもちろん、東のほうに一反ほど、飛び地して一反ほど、西のほうにも一反か二反(その一部を保育所の用地として提供した)、北のほうにも一反か二反あった。
→ 畑の一角に植えた鳳仙花。一年草と思っていたが、毎年、咲いてくれる。秋を先取りするような雰囲気。
小生がガキの頃には、それらは残っていたが、小生が高校生の頃までには、西の田圃はほとんど手放していた(ほんの僅か、住宅街の中の生活道路として残っている)。東と南にあった田圃は、小生が学生時代をノウノウと過ごしていた間に徐々に手放されていった(但し、一部が我が家の敷地のままに、生活道路になって残っている。固定資産税だけは払い続けるが、市の道扱いである)。
小生が異郷の地で霞を食って生きていたもので、田畑などの手伝(男手)がなくなって、父母二人では、手に余ったからである。
残るは、我が家の前の一反ほどの田圃と畑。
畑の一角に、一時期、貸家を作っていたが、借主とのトラブルに辟易し(夫婦喧嘩するたびに、泣き言を言いに来る、などなど)、数年で止めて、畑の一部と併せ、土地を売却した。
その前に、敷地の一部を父の姉に提供した。父の姉夫婦の家を建てるために。
というわけで、田圃は我が家の前に一反足らずが残るだけとなった。それも、小生が東京暮らしを続け、帰郷する見込みがなく、父母共の高齢化もあって、稲作はできなくなり、土地は放棄した。
我が家の茶の間から、かつては田圃だった土地が見渡せる。今はよその土地で、飛び地となっているので、近所の奥様方数人が鳥を管理するという名目で、畑として活用している。
我が家にも多少の割り当てがあるが、父母の高齢化で手を出せず、我が家の分担分だけ、荒地。
小生が帰郷した5、6年前には既に雑草の野となっていた。近所の小母さんに、十メートル四方の一角は我が家の分担となっていると聞き、何を植えるわけではないが、雑草を刈り取る(晩秋には除草剤を撒く)作業だけ、行ってきた。今年初めて、小生はカボチャの苗を植えた。育つかどうか分からないが。
← 過日、ゲットしたヘッジトリマー。二度ほど試したが威力を実感。重宝しそう。左奥にあるのは、チェーンソー。杉の樹を自力で伐採しようと入手したのだが、巨木過ぎて手に余って、使わずじまい。借り倒した木の幹を細分化する際に使うつもり。
田圃は全て無くなり、ちゃんとした畑は(上記とは違う場所の)十メートル四方の一角があるだけ。庭も残ってはいるが、庭木は見る影もないほどに荒れている。
父祖が見たら、呆れ嘆くだろう惨状である。
それ以前に、跡取りが居ないことを嘆いているかもしれない。
我が家の概要を簡単にメモした。
次回は、思い出の中の郷里の姿などをメモしてみたい。
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