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2013/08/19

へのへのもへじ

 あの人と出会ったのは、俺の下宿先のすぐ近くにあった八百屋さんだった。
 学生になり、一人暮らしを始めて半年は経っていただろうか。秋口の東北の 田舎町は、夕方ともなるともう吐く息が白い。

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← 安部公房/著『他人の顔』(新潮文庫)

 賄いつきの下宿なので、普段は朝食も夜食も心配する必要はない。昼間は、 学校へ行ったり友達と街中をふらついたりするので、近所で買い物をすること はめったにないのだった。
 が、その日は、下宿の小母さんが何かの用事があって、食事は自分で済ませ る必要があったのだ。
 近所の町を歩いてみると、引っ越した当初はともかく、そのあとはほとんど 出歩いたりしたことがなく、タバコ屋さんと酒屋さん以外は何も知らないこと に気付いた。八百屋さんが何処にあるかなど知らないままに半年を過ごしてし まったのである。

 あの日、台所を自由に使っていいという話を事前に聞いていたので、何の気 まぐれか、俺は料理に挑戦しようと思い立った。作るのはチャーハンかカレー ライスかハンバーグ。店に行ってメニューを決めるつもりでいた。
 買ってから一度も洗ったことのないジーパンを穿き、濃紺のジャンパーのポ ケットに手を突っ込んで、ブラブラ歩いているうちに、やっと八百屋さんを見 つけた。なんのことはない、すぐ近所にあったのだが、思いっきり遠回りして 戻ってきたら、何だ、そこにあったという次第だったのである。
 つまらない回想に過ぎない。でも、俺にはあの人との出会いまでの長い旅路 のように、今にして思えてならない。まっすぐ八百屋さんに向かっていたら、 あの人とは巡り逢えなかったはずなのだ。
 店先には数人の奥さん連中が買い物をしていた。数々の野菜の山に、目移り するばかりだった。反ってメニューに迷うことになった。
 しかし、ホントに目が釘付けにされたのは、買い物に来ていたらしい女性にだ った。

 美しい。横顔しか伺うことが出来なかったけれど、絵にも描けないような美 しさだった。秋の夜気は彼女の横顔の輪郭を鮮烈なまでに浮かび上がらせてい た。じろじろ無遠慮に見ては、失礼だと思う常識さえ、飛んでしまった。
 彼女は和服を着ていた。それもただの割烹着というのではなく、若奥様とい う雰囲気を漂わせるきちんとした和服なのだった。淡い萌黄色だったことだけ は、はっきり覚えている。和服の上に白いエプロンをしていた。
 ただ、不思議なのは、まるで時代劇にでも登場する奥方 のように、頭巾を被っていた。紫色の手拭いを御高祖頭巾のように、目深に被っていたのである
 、天井からぶら下 がる電球の灯りに美しい顔がくっきり浮かび上がるはずが、手拭いの影になっ て反対側が見えなくなっている。たまたま俺のほうから見る側は、照明が彼女の抜ける ほどの白い肌を際立たせてくれていたのである。

 彼女の肌は異常なほどに白いのだった。電球の橙色の灯りに照らされている にも関わらず、この世の光など受け付けないというような悲しいほどの冷たさ があった。
 美人だから、こんな風に感じるのだろうか。
 さすがに俺も我に返って、南瓜やら茄子やらネギやらピーマンに目を転じた。 美人が気になっていて、買い物など上の空だと分かっていたが、俺にはどうする術も能もない。
 とうとう、もう、何でもいいやと、ジャガイモや玉葱やニンジンなどを買い 込むことにした。考えるのが面倒になったのだ。カレーライスなら、ルー次第 で味が誤魔化せる。
 見繕って勘定を済ませようとレジに向かった。

 俺は思わず知らず彼女の反対側に回ることになった。何とか彼女の顔を見尽くしたいと 思いもあった。もっと近くで美しい女性の、せめて雰囲気でも味わいたいとスケベ心を出したのだ。
 それが間違いだった。彼女の顔の半面には、無数の瘤が積み重なっているの だった。白い団子をぶちまけたようだった。手拭いを顔全面に垂らさない限り、 隠しようがないほどに、半面は瘤に覆われているのだった。
 俺は瞬間、ギャーと叫びそうになった。怖気立ってしまった。背筋が凍りつ いた。全身の血が引いてしまったのが分かった。買い物など放り出して、一目散に逃げ去りたかった。俺と擦れ違う奴等が、思わず自分の顔に手を 遣り、我が顔がまともであることに安堵するように、俺も自分の顔を撫で回したくなった。あれに比べたら俺など、可愛いものじゃないか…、と。

 その場に誰も居なかったら、俺は間違いなくそうしていたに違いない。
 が、そこには奥さん方の眼があった。彼女たちは、あの人を見慣れているに 違いなかった。
 彼女たちの目は、(あら、なんでもないのよ、変な真似はしないでね)と訴えていた。
 それどころか、目の奥の冷たい目は、彼女等が俺の挙動を冷静に観察してい ることを示している…。変な仕儀に至ればただではすまないという覚悟も、一見すると柔らかそうな、しかし何処か引き攣った笑みの向こうに透けて見えた。
 俺は一世一代の根性を出した。つま先に力を篭め、感情を押し殺し、淡々と 勘定を済ませて、ゆっくりと店を去った。そして、ゆっくりと歩き続けた。

 高校時代に読んだ安部公房の『他人の顔』を思い出した。 初めて読んだ時、彼は深い形而上的問い掛けをしているように見えて、実は公房は逃 げているという読後感を持ったことを覚えている。
 所詮は、彼には衒学的な諸問題のひとつに過ぎないのだ。当事者ではないの だ。他人事に過ぎないから、問題を問題として放り出したまま、他の課題へ移 っていけるのだ。残された当事者は、どうなるのだ…。
 彼女の、片面は絶世の美女、反対側はこの世のものと思えぬ醜さという、天と地とに引き裂かれるような、衝撃的な存在に、俺は自分のこれまでの人生が根底から問い直されることになった。
 やわな、半端な答えでは、彼女に跳ね返される。といって、安直な答えに逃げ込むことも許されない。
 俺はあの日から木偶の坊になってしまった。この世という砂漠に訳もなく突 き立てられた案山子だった。形だけの、魂の骸になってしまったのだ。

 カンナであの人の顔の瘤を削り取りたいと思った。事実、夢の中で女を押し 倒して顔を溶かして作り直そうとするのだけど、どうしてもうまくいかないと 途方に暮れていたりした。
 あの日から彼女には二度と逢えなかった。尤も、俺は八百屋へ足を運ぶこと がなかった。下宿の小母さんが不在になることがなくなったからと自分を納得 させようとした。嘘に決まっている。

 あの人の面影が、現(うつつ)にも夢にも現れるのだった。彼女は俺の亡霊 となった。心は彼女を中心に渦を巻いていた。最初に見た彼女の横顔のこの世 のものとも思えない峻厳なまでの美しさ。が、罪なまでの美しさは半面の醜さ で残酷なまでに相殺されていた。それだったら、最初から平凡な女でよかった はずなのに、何故、あの人はあんな風なのだ。何があの人をあのようにさせた のだ。神? 仏? 人間?
 そして気がつくと、俺は彼女を想う亡霊となった。白い頭巾を被せて、彼女 の顔を平凡な顔に作り変えることが俺の使命になってしまった。頭巾が無理な ら白い包帯でもいいのだ。そしてその上に、顔を描く。なんでもいい。へのへ のもへじでもいい。それでも遥かにましだ。

 そうだ、俺はクレーだったかの描く「偽りの顔」のような、包帯の透き間から不気味な 目を覗かせるようなへまな真似はしない。八雲の耳なし芳一のように、呪文を 塗り忘れるようなことは絶対しない。
 俺は、日毎夜毎、あの人の夢を見た。あの人に魘されつづけた。魂は、何処 かへ離れ去り、俺は純粋な恋の虜となった。
 あの人に惚れたのだ。本の裏表紙に、机の天板に、問題用紙の片隅に、夢の余白に、へのへのもへじを書き殴った。切ないような気持ちだった。どう描け ばいいのか分からない俺には、ただ無意識に顔の描けるへのへのもへじが救い だった。
 あの人を何故、もう一度、探さなかったのか、後悔ばかりが俺を苛むのだった。
 けれど、俺は同時に彼女を恨んでもいる。そう、憎んでいるのだ。惚れているんじゃなくて、あの女と密室の中で恨みつらみをぶちまけたかったのだ。

 彼女に出会わなかったら、俺は俺のコンプレックスを後生大事に抱えて生き ていけたはずなのに、そんな甘い目論見など吹っ飛んでしまったのだ。それもこれもあの女のせいじゃないか。この世の一切は中間者なのだということ。パスカルの言が、胸に沁みたのはあの人のせいなのだ。どんな苦しみのタネも、 それ以上があり、それ以下がある。
 だとしたら、俺は所詮は、ただの凡人に過ぎないじゃないか。俺は選ばれた 人間だという密かな自負が根拠を失ってしまった。いじけ、捻くれた念が、根 底から崩れていった。今更、ただの、そんじょそこらの人間であるという未知 の感覚に、とても馴染むことはできそうになかった。

 夢のキャンバスに、無数のへのへのもへじを書いた。心の襞にへなへなもへじを書いた。疲れきって、体にへとへともへじを書いた。涙と共に、へなちょこもへじを書いた。あの人の面影を雲にまで読み取った。
 そして俺は、今も、へのへのもへじを書き続けているのだ。


(本編は、設定を除いては、小生として初めて実話に基づいて書いた作品である。アップに際し、一部、手直しした。 (02/10/06)原作)

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