夏が来た!
鬱陶しい梅雨が明け、待望の夏が来た、なんて能天気なことが云えたのは、ずっとずっと昔、遥か遠い昔の話で、今は、早く梅雨が明けてほしいけれど、明けたら明けたで猛暑の夏に苦しめられる…早く、過ごしやすい(だろう)秋がやってこないか…そうはいっても、快適な秋空の日々はあっという間に過ぎ去り、晩秋に嘆き、冬の到来に怯え、いざ冬に、雪の季節になると、はやく春が来ないかと待ち侘びる。
ところが、肝心の春がいざやってきてみると、憂鬱の感がやたらと深く鋭いことに驚かされる。
冬の寒さから春の解放感に喜びの感が横溢するのは、子供たちであり、若いうちであり、それ以上に、草木であり虫たちであり雑草などなのである。
生命の横溢は、生命力の枯渇を自覚し嘆く自分には、眩しいばかり、それ以上に、恨めしいほどに憂いものと感じられるだけ。
春もこれはこれで(彼我の生命力の格差の増大という現実に立ち竦むばかりであるがゆえに)目を心を塞いでやり過ごしている自分を見出して、愕然とさせられる。自分を置き去りにする春ほど憎らしいものはない…
こうなると、憂さを感じない季節など、ありはしないことになる。
そもそも季節感自体が薄らいで、厳しい冬と、亜熱帯の長い夏との二つの季節があって、その間にあるといえば確かにあるが、しかし掴みどころのない春や秋が居場所をドンドン失って窮屈そうにして縮こまっているのをやっとのことで見出すばかり。
そう、今をじっくり楽しむのではなく、常にもう少し身体(と心)に優しい日々を恋い焦がれるばかりの日々をやり過ごすようになっている。
今日は、耐え忍び、やり過ごし、いつ来るともしれない慰安と癒しの日への(まず、望みのない)期待のみで流していく、かなり不毛となった時の厚みに過ぎない。
経済的にもだが(先行きはますます暗くなる一方で、実はこれが己の心身を蝕む圧倒的な原因のような気がするが)、肉体的に鬱屈した憂鬱な日々だけが続いていく(後者の沈鬱な衰退ぶりに、心身が深甚な打撃を被って、立ち上がるのも苦しかったりする)。
身体は鍛えればそれだけ見違えるようになる…はずだったのが、動くことがそれだけ体への負担になるばかりで、といって動かなければ徒(いたずら)に朽ちていくばかりなので、体の節々の脂が凝り固まったり磨り減ってギシギシしない程度には動かないといけない、そんなプレッシャーにも負けそうなのである。
老骨というには、まだ早すぎることは分かっているが、それでも、朽ちつつある骨と肉と筋は悲鳴を上げていることは痛いほど分かっている。動けば体が磨り減り、動かなければ体が錆び付く。
二進も三進もいかない。
| 固定リンク
「写真日記」カテゴリの記事
- 一人きりで庭仕事するとはこんなこと(2024.11.13)
- 逆コースだってありえたのでは?(2024.11.12)
- 柳 宗悦著『民藝四十年』に学ぶこと多し(2024.11.11)
- 立山初冠雪過去2番の遅さ(2024.11.08)
- 円安株高が加速(2024.11.07)
コメント
夏休みがあんなに楽しかった子どもの頃。
宿題もあったけど、家族旅行したりと。
ともかく九州は宮崎が大好きで、夏に相応しい海に面した鵜戸神宮なんて何度行ったことか。
海を見て信仰を考える、鵜戸神宮は素晴らしい。
弥一さんは、夏休みの思い出とかありますか?
投稿: oki | 2013/08/04 00:27
okiさん
夏休みは、子供には、夢の時空。
始まる前は、ながーい、ながーい、膨大な時空が広がっている…と感じていた。
何をして過ごすか、分からないような豊富な時間。
夏の思い出は数々あります。
学生時代のオートバイでのツーリングも思い出深い。
投稿: やいっち | 2013/08/05 21:46