坂のある町への想い
ただし、住んでいたのは、高輪で、三田や芝、白金、麻布に接している(つながっている)。高輪の大地は古代の東海道が通っていた地で、まさに高台となっている。古代は、その直下に海があったのだが、やがて埋立てが進み、東海道が通るようになった。
歩いて会社へ向かうには、道筋は幾通りかあったが、最短のルートを選ぶときには、高輪の坂を上り、高台を横切り、高輪の坂を下って、新しい東海道へ。そこを横切って、山手線(京浜東北線)の地下を潜る。高さが1.7メートルほどの暗い道を数百メートル、頭をやや傾げながら歩いていく。一方通行の地下道で、車の抜け道でもある。
東京には、山の手と呼ばれる地域がある。「低地にある下町に対して、高台にある地域を指す」という。
より詳しくは、「山の手 - Wikipedia」によると、「東京においては、歴史的に江戸時代の御府内(江戸の市域 = 朱引、もしくは大江戸)において、江戸城の近辺と西にあたる高台の武家地域を『山の手』と呼び、水運に適した低地にある商工業が盛んな町人町を『下町』と呼んだ。山の手の代表的な地域は、麹町・牛込・四谷・赤坂・麻布・芝・本郷・小石川などである。地理的には武蔵野台地の東端にあたる。日本の近代化とともに山の手はさらに西へと広がり、第二山の手と呼ばれる一帯が形成されていき、日本の西洋化を象徴する地域ともなった」とか。
← 中三日でこれだけの収穫。
高輪から白金、麻布、芝、六本木などは接している。入り組んだ坂道が幾本もあって、整備される前は、車で麻布(十番)から六本木の交差点へ迷わず向かうのは、案外と難しかった。
幾筋もの入り組んだ坂道、細い路地を歩く。思わぬところに階段や地下道があって、車だと遠いのが、歩いてみたら、すぐそこだったりする。
麻布も昔は狸の出るような草木の鬱蒼と生い茂る小高い山で、そこに幽霊坂などの数知れない坂道が刻まれていった。
高級なマンションや邸宅が山の起伏のあちこちにある。車で向かうと、分かれ道が幾つもあり、まるで隠れ処のようでもある。
渋谷にしても、道元坂などに象徴されるように、坂の町である。緩やかに起伏する谷の底に渋谷の町ができていった。
東京は坂の町でなくても、歴史や文化が錯綜している。足跡や思い出や事件や体験や情念が踏み固められ、掻き削られ、掻き混ぜられ、堆積し、拡散する。野心と情熱とが、期待と絶望とが、退屈と緊張とが、背中合わせになっている。
坂の町は、細い坂道が、それらの情念の符合を複雑に結び付け、意外な形で出会わせ、あるいはすれ違わせる。
東京在住時代の後半は、大田区に居住していて、平坦な地、新たに造成された地という印象がある(実際には古くからあったのだが)。平坦な町は、すべてが見通せる…かのような印象を抱かせる。
両側が塀や生け垣や崖の坂の道で行き来するしかないとなれば、一望が叶わない。常に崖や山や起伏で大きな死角を生じさせている。その死角の連続が坂の町に独特な物語の雰囲気を醸し出す。
大田区の、それも区役所があったような中央と呼ばれる地域に住んでいると、平板な座標軸の上に、誰によってでも一望監視が可能な、アパートでいえば、天井も壁もぶち抜かれたような、奇妙な丸裸感があった。
歴史や文化が、堆積する前に、綺麗に拭われ取っ払われて、吹きっ晒しの感を抱かされる。
→ 畑の一角で草むしり作業。カボチャの姿が一部、現れてきた。
富山の我が町に帰ったときも、同じような感じを抱かされてしまった。
空襲で市街地が殲滅されたから、大田区以上に歴史が薄い(かのような)感じがする。
扇状地であり、田畑の農村であり、森も林もなく、せいぜい屋敷林が点々とあるだけ。
坂はなく、曲がりくねった道もなく、この道がどこへどう繋がるのかという、未知の感覚が生じようがない。
神社や寺でさえ、深い森に囲繞されることはなく、神秘や不可視の感から遥かに遠い。
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