ネタ元の絵が気になる
ゆっくりじっくり読み進めている、吉川 一義氏訳の『失われた時を求めて』だが、今月中には、第四巻目を読了しそう。
何度も書いているが、どの巻のどの頁、どの叙述を読んでも、ダレルことがない。常に新鮮な比喩と表現と分析を目にすることができる。
← プルースト【作】 『失われた時を求めて〈4〉花咲く乙女たちのかげに〈2〉』(吉川 一義【訳】 岩波文庫) 今月中に読了かな。
知られているように、プルーストのこの小説は、音楽や絵画(屁の言及やイメージ)が比喩の形で、あるいはほとんど直接的に、ふんだんに使われている。
本訳書では吉川 一義氏が、他の研究者の研究成果も含め、ご自身の研究調査の結果を注の形で示されている。
プルーストのこの小説を書かれた時代の風俗はもちろんだが、比喩などの形で言及(あるいは参照)されている音楽や絵画は可能な限り、画家名はもちろん、絵画であれば、プルーストが参照したであろう作品画像も示され、説明が施されている。
ただ、そんな中、参照画像や説明が施されて当然だろうと思われる、プルーストが小説の文章の中で想定しているだろう絵について、全く説明も注も与えてくれていない個所があった。
気になってならない。何と云っても、日本の浮世絵が叙述の下地にあるはずだから、訳者の吉川 一義氏なら当然、調べてあるはずである。
→ 日曜日の収穫。ゴーヤにナスにキュウリ。プチトマトはいっぱい生っているけど、収穫が面倒で放置状態。我ながら、勿体ない!
なのに、なぜか素通り。
本来なら、話の筋やどんな場面での奇術なのか、説明をすべきところだが、面倒なので省く。
主人公の少年が、住まいの近くで見かけた花咲く乙女たちのことが目に焼き付いている。知り合いになりたいが正体が不明である。
家に戻ってベッドに横たわっても、気もそぞろで、窓外の海辺の光景も上の空で愛でる気分になれない。
以下、第四巻のp.361-2 より転記:
(前略)あるときは、あたかも日本の浮世絵版画の展示であった。月のように丸くて赤い太陽がぺらぺらの切り抜きに見えるかたわらに、ひとひらの黄色い雲がまるで湖と化し、その湖を背景にして黒い両刃の剣(つるぎ)のような花茎が岸辺の木々とともに浮かびあがり、私がはじめてもらった絵の具箱で見てから二度と目にしたことのない優しい色合いのピンクの一本の棒が大河のように膨らみ、その両岸にあげられた船はみな引き出されて水に浮かぶときを待っている。すると私は、ふたつの社交上の訪問の合間に画廊をのぞきにきた愛好家や婦人の、うんざりした横柄で軽薄なまなざしを向けて、こう思った。「不思議だこの夕日は、たしかに風変わりだ。でも、これと同じように繊細で同じように意想外な夕日は、すでに見たことがあるぞ。」夕刻になり私がさらに喜んだのは、水平線に吸収されて液体化した船が、印象派の画のように水平線とほとんど同じ色合いに見えて、材質も同じであるように感じられるせいで、そこだけ切り抜かれたように浮かぶ船体と網具の材質だけが薄くなり、青くかすんだ空の透かし模様となって浮き出ていたときである。ときに大海原が私の窓をほとんど埋めつくすかに見えたが、じつはひとすじの空が海と同じ青の一本の線で窓の上方を縁どり、その筋が海をかさあげしたにすぎず、それでも私はそこはまだ海だと思いこみ、ただ光線の加減で色が違うのだろうと考えた。べつの日には、海は窓の下のほうだけに描かれ、それ以外の部分はすべて雲が水平の帯状にひしめきあっていたから、窓ガラスは、画家の企みか熟練の技か、「雲の習作」と化していた。そのあいだも書棚のさまざまなガラス戸に映し出された同じような雲が、視野のべつの箇所に光の加減でさまざまに彩色されると、現代絵画の巨匠たちが同じひとつの対象の生み出す効果を相異なる時刻に捉えてくり返し好んで描いたように、さまざまな雲がいまや芸術の力で固定され、パステルで描かれたあとガラスをはめ込まれ、それらすべてを同じ部屋のなかで同時に眺めることができた。(以下、ピンクとグレーのハーモニーということで、ホイッスラーの画題が参照されるが、略す。太字は、小生の手になる。)
後半の太字部分である「現代絵画の巨匠たちが同じひとつの対象の生み出す効果を相異なる時刻に捉えてくり返し好んで描いたように」は、吉川氏によると、モネの連作を想わせる、としている。
← 吉川 一義【著】『プルーストと絵画―レンブラント受容からエルスチール創造へ』(岩波書店) 「長編『失われた時を求めて』に絶妙な小道具として登場するさまざまな絵画とプルーストとの出会いをていねいに跡づけ、作中での多様な役割を考察。プルーストの絵画受容をとおしてその創作の秘密にいどむ」といった本らしい。(画像や説明文は、「プル-ストと絵画 - 吉川 一義【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア」より) まだ手にしたことない。読んでみたい。
さて、本題に関係するのは、初めの太字部分で、「あるときは、あたかも日本の浮世絵版画の展示であった。月のように丸くて赤い太陽がぺらぺらの切り抜きに見えるかたわらに、ひとひらの黄色い雲がまるで湖と化し、その湖を背景にして黒い両刃の剣(つるぎ)のような花茎が岸辺の木々とともに浮かびあがり、私がはじめてもらった絵の具箱で見てから二度と目にしたことのない優しい色合いのピンクの一本の棒が大河のように膨らみ、その両岸にあげられた船はみな引き出されて水に浮かぶときを待っている」という叙述である。
明らかに(恐らく)高名な浮世絵師の作品を想定しての記述だろうと思われるが、本書では、吉川氏は一切、注解を施されていない。なぜだろう。
作者名や作品名が分かれば、ああ、この浮世絵か! と得心するのだろうが、分からない。
知りたい!
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コメント
ううーん、わからないです…。
というか、文字から絵を連想する作業ができませんでした。
想像力の貧困さが身に染みてわかります。
読解力かしら?
そもそも、絵を言葉で表す作業は困難です。
私には到底できませんよ。
投稿: 砂希 | 2013/08/26 20:40
砂希さん
絵から文章を作るのは大好きな作業です。
パウル・クレーやヴォルス、ポロックなどの絵を見ながら、詩や小説を何十個も作ったものです。
絵を言葉に置き換える…作業はプルーストもやっているようですが、小生の場合、絵に触発された世界を描く手法です。
絵は想像力を掻き立てます。
それなのに、肝心な浮世絵が誰のものか、思い浮かばない。悔しいです。
投稿: やいっち | 2013/08/27 21:32