真夏の夜の友
暑苦しい日々が続いていた。夜になっても息苦しい暑さは、和らぐことがない。
うっかり窓を開けようものなら、エアコンの吹きだす熱気が部屋に流れ込むに 違いない。もう、都会では夏の夜でも窓を開けることは叶わないことなのだ。
アスファルトに篭っていた熱とエアコンの排泄する熱とが、都会の夜を掬い難いほどに殺気に満ちたものにする。いや、逆だ。鈍麻させるのだ。人間の意識を朦朧とさせる。箍が緩んでしまう。
林立するマンション群からの数知れないエアコンのモーターとファンの回る音が、遠くからの地鳴りの ような車の音とやたらと交響している。夜の底の静けさなど真夏の都会には無縁なのである。
俺はエアコンが嫌いだ。少々暑くても、せいぜい扇風機を回すだけにして いる。その扇風機も、首振りをさせて、風が遠ざかったり、あるいはまともに吹き付けてきたりして、その単調な繰り返しを真っ暗な部屋の中で、いつまでも感 じている。それだけで夜は素敵になる。
これで窓を開けることができたら…。
言っておくけれど、扇風機の作りだす無理矢理の風を俺は好んでいるわけじゃ 決してないのだ。むしろ、その不自然さを堪えていると言っていいほどだ。それでもエアコンよりは、遥かにましだというに過ぎない。
仕方なく、カーテンを開け、床に寝っ転がり、真っ暗な部屋の中からはす向か いの二つのマンションの透き間に垣間見える夜空を仰ぐ。
都会特有の漠然とした、曖昧な、捉えどころのない青白く輝く闇。どんなに夜が深くなっても、夜の底に辿りつくことはない。
俺は、出窓に置いてあるスタンドの明かりを灯した。それは夜の訪問者への合図なのだ。
(さて、そろそろだな)
俺は待っていた。夜の訪問者を。 俺はじりじりしながら待っていた。しかし、 来訪を期待しているのかというと、決してそうではない。それどころか、来て欲 しくないというのが本音なのだ。
それでも、俺は待っていた。俺にはそいつしかいないのだ。俺の相手をしてくれるのは、酔狂なあいつしかいないのだ。
そいつは足音も立てずにやってくる。
やってくるだけではない。俺など無視して勝手に部屋の中をうろつくのだ。
俺の許しも得ないくせに、気随気侭に彷徨うのである。
こんなにも勝手な野郎は、ヤモリくらいしかいない。
ほんの数ヶ月前までは、隣りの住人の飼っている猫が、時折、夜中にやってき たものだった。晩春の夜のことだから、ベランダのドアを少し開けておく。そこ から外の空気を呼び込むためだ。
が、ついでに猫まで招じ入れる結果になったのだった。その猫は、俺の部屋の 玄関ドアも開いていることを何故か知っているのだ。
そう、ベランダから入ってきた猫は、玄関ドアから廊下へ出て、隣りの主人の 帰りをひたすら待ち続けていたというわけである。
その隣りの住人も去って、猫も姿を見せなくなった。
猫の前は蜘蛛だった。最初はちっぽけで、よほど注意しないと気が付かないほ どだった。
それが、いつしか成長して、小指の爪ほどの大きさになった。同時に、態度も 何処か図々しくて、俺が動いても平気で、ゆっくりと壁を這いまわるのだった。
あの蜘蛛の奴は、猫がやってくる時にも姿を見せていたのに、最近は、何故かすっかり御無沙汰である。まさか、ヤモリが…。
そういえば、その前はハトだったっけ…。
そして今、俺の部屋を訪れるのはヤモリだけというわけである。
このヤモリを俺の部屋の中にまで招くのに、どんなに苦労したことか。闇の中、 灯りに釣られてやってくるというヤモリを、エレベーターホール付近から俺の部屋へ移動させるのに、ありとあらゆる工夫を重ねた。
好きそうな餌を用意するのが大変だった。昆虫が好きらしいとは聞いていたが、 その昆虫にしてから、都会では見つけるのが難しい。どこかの店で買うというの も、癪だし、そんなことにカネを使いたくない。
俺は蜘蛛からゴキブリから名前の知らない虫けらから、とにかく片っ端から虫どもを捕らえてきては、そいつらを籠に入れて、ヤモリを誘ったのである。
簡単なことではなかった。ヤモリは明るいほうが好きらしいので、通路より俺 の部屋の中を明るくしなければならない。
それだけは避けたかった。が、餌とスタンドの明かりとの二つの魅力を併せた なら、間違いなくヤモリの奴がやってくるに違いないと確信していたのである。
俺は部屋の中を勝手に素通りする猫が、実は憎たらしかった。少しは俺に挨拶 したらどうだと、文句の一つも言いたかったのだ。
けれど、何も言えなかった。いざ、夜半をとっくに過ぎた暗闇の中で猫の気配 を感じると、気の小さい俺は息が止まってしまい、喉がカラカラになって、ベッドの上で寝たふりを決め込むことしかできなかったのである。
情ない。でも、誰にも知られるわけもないからこそ、あの屈辱に耐えてこられ たのだ。
俺は、猫にさえ、声をかけることも、かけてもらうこともできない甲斐性なしなのだ。
が、ヤモリとなると、話は別だ。奴に声をかけるなんて、誰も思わないだろう し、まして、奴から口を利いてもらうなんて、夢にも思わない。
だから、猫の時の屈辱感だけは味わうことがなくて済む。しかも、夜の寂しさ を俺の大嫌いな爬虫類の気配で埋めることができる。神経を逆撫でされるような 不快さで心を一杯にすることができる。
俺は淋しいのだ。
物思いに耽っていると、不意に、耳障りな鳴き声が聞こえてきた。都会にカエル?
違った。今では、それがヤモリの発する鳴き声だと俺は分かっている。ヤモリの奴は俺を慰めるために鳴いているのだろうか。それとも餌をたっぷり喰うことができる喜びに噎せているの か。
いずれにしろ、俺は、今、孤独ではない。それだけは断言できる。
[本稿は、10年以上も昔、都会の片隅の集合住宅に一人暮らししていた頃の、ある真夏の夜の心象風景的掌編。小生、一向に変わっていない。変わったのは住環境だけ。富山の片隅で暮らす今、ヤモリどころかヘビだったトカゲだってうようよいるし、畑や庭に数知れない虫たちが生息している。都会とは比べ物にならない生き物に適した環境。でも、そこに暮らす吾輩の心象風景は変わり映えしない。(13/08/20 記)]
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