長谷川伸「瞼の母」の現代性
二週間ほど前から読み始めていた、『ちくま文学の森 〈2〉 心洗われる話』を昨日、読了した。
最後に読んだ、長谷川伸の「瞼の母」や宮本常一の「土佐源氏」は、実に久しぶりに接する作品で、懐かしさの念もあり、入れ込んで読んでしまった。
← 長谷川 伸【著】「長谷川伸傑作選 瞼の母」(国書刊行会) 長谷川 伸は、「大衆文学の父と呼ばれ、池波正太郎や藤沢周平らの時代小説の原点とまでいわれる作家である。その戯曲や小説は、いまも大衆演劇の劇団が演じ続けている」。
「幼くして母と生き別れ、父とも死別した無宿渡世人番場の忠太郎が、母を探し求め、再会し、再び別れるまでの物語」である。
(筋書きは、「映画瓦版」の中の「瞼の母」参照)
宮本常一の「土佐源氏」も田舎の夜這いなどの風習(小生のガキの頃にも、幽かな名残りがあって、ほんの少し恩恵に浴した)が知れて面白いが、印象的なのは、長谷川伸の「瞼の母」だった。
今時、こんなお涙ちょうだい式のドラマが成り立つのか、一般受けするのか分からないが、誰もいない部屋の中とて、素直に感動に浸っていた。
本書のテーマは、心洗われる話とあるが、テーマに則したような話は、あまり載っていない。
何処をどうやったら、心洗われるのか理解に苦しむ作品もあった。
作品がどうこうではなく、テーマとは懸け離れている、という意味合いだが。
梶井基次郎の「闇の絵巻」も吉野せいの「洟をたらした神」も読みごたえはあるのだが。
→ 庭先の夾竹桃が花盛り。青空に映えて。
一方、何度読んでも、まるで受け付けない作家(小説)もあったりする。樋口一葉の「たけくらべ」などは、語調や文体のせいなのか、そもそも話に入っていけない。
「銀の匙」で有名な、中勘助の「島守」も、期待の念が高すぎたのか、作品の世界に入り込めなかった。
これらに比べると、桂三木助の「芝浜」や長谷川伸の「瞼の母」は、落語や芝居(映画)などでの定番中の定番なのだが、筋書きも作者の意図も分かりきっていて、ここでお涙頂戴となるなと分かっていても、術中に嵌ってしまう。
長谷川伸の「瞼の母」は、股旅もの(要するにヤクザもの)なので、舞台などではともかく、映画やテレビなどで採り上げられることはもはやなさそうである。
そうはいっても、大衆演芸の典型のようなこの作品が親や家族、さらにはまともな社会と縁の切れた、根無し草のヤクザを扱った、古臭いだけの芝居では決してない。
← 『ちくま文学の森 〈2〉 心洗われる話』(安野 光雅/森 毅/井上 ひさし/池内 紀【編】 ちくま文庫 筑摩書房) 目次:少年の日(佐藤春夫)蜜柑(芥川龍之介)碁石を呑んだ八っちゃん(有島武郎)ファーブルとデュルイ(ルグロ)最後の一葉(O.ヘンリー)芝浜(桂三木助)貧の意地(太宰治)聖水授与者(モーパッサン)聖母の曲芸師(A.フランス)盲目のジェロニモとその兄(シュニッツラー)獅子の皮(モーム)闇の絵巻(梶井基次郎)三つ星の頃(野尻抱影)島守(中勘助)母を恋うる記(谷崎潤一郎)二十六夜(宮沢賢治)洟をたらした神(吉野せい)たけくらべ(樋口一葉)瞼の母(長谷川伸)土佐源氏(宮本常一)
右肩上がりの経済は過去のものとなり、派遣やフリーターといった不安定な職業形態が当たり前となり、高度な経済成長を遂げていたころは未だあった家族(三世代同居)が今や核家族さえ危うくなりつつある今日、経済的な困窮が結婚さえ夢の夢となりつつある今日、貯金などびた一文もない、つまりは、誰もがちょっとでも病気したり、ミスしたり、組織からつまはじきされるともう二度と、まともな社会の輪の中には戻れない、そんな無縁社会に直面している現代、長谷川伸の「瞼の母」は、過去の古臭い芝居ではなく、誰もが直面しかねない、まさに今の物語とさえ映ってくる。
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