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2013/07/20

この人の目を見よ!

 連日、猛暑が続いていたが、この数日は、低気圧の影響か、朝は21度前後、日中の最高気温は30度をやや上回る程度と、平年通りの気温の日々が続いている。
 今日にしても、こうした気温で、非常に過ごしやすい。

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→ アンドレア・マンテーニャ「聖セバスティアヌス(San Sebastiano) 」(1458-1470年頃 68×30cm | テンペラ・板 | ウィーン美術史美術館) この作品は、1910年にルーブル美術館に収められた。プルーストもこの画を見ていたものと思われる。小説の中では、ある登場人物を評するに際し、次のように描かれ、この絵が参照されているようだ。:「しかし私には、このゲルマントという名前を耳にしたとたん、わが家の友人の青い目の真ん中に、目に見えない針先で突かれたように小さな褐色の切れ目が穿たれ、それにたいして瞳の残りの部分から青い波が分泌されるのが見えた。瞼の隈は黒ずんで下にさがり、口元にはひとすじの無念の皺が寄った。ルグランダン氏はすぐに気をとり直して笑みをうかべたが、そのまなざしは身体に矢を打ちこまれた美男の殉教者の視線と同じで、いつまでも痛々しかった。(本書 p.282-3)」 ちなみに、美男の殉教者とは、聖セバスティアヌスのことである。描かれているセバスティアヌスの哀れな目を見よ! 「(画像は、「アンドレア・マンテーニャ-聖セバスティアヌス-(画像・壁紙) サルヴァスタイル美術館」より)

 ともすると、扇風機(のタイマー)が止まっていても、慌ててスイッチを入れ直す必要も特に感じない。
 夕方の入浴後も、十分も扇風機の風を浴びれば、汗が引いてしまう。
 ほんの数℃の気温の変化が齎す体感の違い。実に微妙なものである。

 全部で十数巻となる予定のうちの第一巻「1 スワン家のほうへ I」(吉川一義 訳 岩波文庫)をそろそろ読了の見込みである。
 慌ただしく過ぎる中、少しずつワインを嗜むように、味読している。

 絵画好きのプルーストのこと、「失われた時を求めて」の中には数多くの絵が言及され、あるいは叙述のベースに横たわり、時には叙述の契機となったりしている。
 参考にされているとしても、必ずしもプルーストが好きだと決まっているわけじゃなく、小説の筋の中で叙述の必要上、載っていたり、ほのめかされたりしてる、ということに留意すべきだろう。

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← マルク=シャルル=ガブリエル・グレール(Marc-Charles-Gabriel Gleyre)作 「夕べ  幻滅(Le Soir Ou Les Illusions Perdues)」(oil on canvas before 1843) フランスで活躍したスイスの画家。作風は写実的。船尾の右上に月。 (画像は、「Gleyre Charles Marc Gabriel Le Soir Ou Les Illusions Perdues.jpg - Wikimedia Commons」より)

プルーストの絵の好み 」でも、参照されている絵(画家)を紹介したが、今回、紹介する絵も、小説の主人公が少年だということも含めて鑑賞されるべきだろう。
 それはそれとして、小説では、この絵は以下の叙述の中で言及(参照)され評価されている:
 

 ときには午後の空に白い月の出ることがあった。雲のようにこっそりと地味なのは、まだ出番のこない女優が客席に座り、平服で、目立たず注目されないように、しばし仲間の芝居をみている恰好である。私は好んでその月のイメージをふたたび画や本のなかに見出したが、そうした芸術作品は――すくなくともブロックが私の目と思考をさらに緻密なハーモニーに慣らしてくれるまでの最初の数年間は――いまの私なら美しい月が描かれていると思う作品とは異なり、当時の私にはそれが月とは認識できなかったにちがいない。そのような作品は、たとえばサンチーヌの小説とか、グレールの風景画とかで、後者では空に月がくっきり銀色の鎌の形に描かれていた。これらの作品は、当時の私自身の印象と同じく愚かにも不完全というべきで、私がそれを気に入っているのをみて祖母の姉妹たちは憤慨した。姉妹たちにしてみれば、子供に与えるべきは、子供がぱっと見て気に入り趣味の良さを示すことができる作品で、かつ成人して最終的に好きになるような作品だと考えていたのだ。姉妹たちは、審美的価値とはその等価物が心のなかでじっくり熟すのを待つ必要はなく、目を開けていればいやでも気づく物質的対象と想いこんでいたのである。(本書 p.318-9)

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コメント

《姉妹たちにしてみれば、子供に与えるべきは、子供がぱっと見て気に入り趣味の良さを示すことができる作品で、かつ成人して最終的に好きになるような作品だと考えていたのだ。姉妹たちは、審美的価値とはその等価物が心のなかでじっくり熟すのを待つ必要はなく、目を開けていればいやでも気づく物質的対象と想いこんでいたのである。》

素晴らしい描写ですね。
その価値がわかったり、好きになったりするのに、時が熟す必要のある物があるのだ。
時の流れ、記憶の襞、プルーストを読むとは、そんなものを玩味すると言うことですね。

投稿: 瀧野信一 | 2013/07/21 03:23

瀧野信一 さん

プルーストの「失われた時を求めて」を読むのは、小生にとって、一つの貴重な体験です。
どんな場面の叙述も、じっくりゆっくり楽しむつもりです。

投稿: やいっち | 2013/07/21 21:07

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