プルーストのショパン評価
マルセル・プルースト著の『失われた時を求めて 〈2〉 スワン家のほうへ 2』をゆっくりじっくり読み続けている。
今のペースだと、この二巻目を今月中に読了するのは、難しそう。
← 日曜日午後の激しい雨と風。ケーブルを伝う雨滴がやがて滴り落ちるのを眺めていた。
まあ、慌てる必要など何もない。
小説を読むと、プルーストの絵の好みが分かって、話の本筋には関係ないものの、これはこれで興味津々である。
音楽についての彼の嗜好も分かって、時代性なのかな、なんて思ったりして、これまた興味は尽きない。
ところで、今日、読んだところで、プルーストのショパンに対する評価がかなり低い、低いどころか、そんな音楽に興じる連中は軽蔑に値するとまで、(あくまで小説の中でだが)書いている。
該当する個所を抜書きしてみる:
カンブルメール夫人は、田舎のほとんど交際もない家庭で育ち、めったに舞踏会にも出かけず、侘びしい館で孤独に暮らしていたから、とかく夢想の世界に酔いしれていた。あらゆるカップルの踊るすがたを想像しては、そのリズムを緩めたり速めたりして、それを花のように摘みとる。いっとき舞踏会を離れると、こんどは湖畔のモミの林をわたる風の音が聞こえ、そこに突然、これまでに夢見たどんな恋人とも異なる、すらりとした青年が進み出るてくると、いくぶん歌うような聞き慣れないつくり声をして、手には白い手袋をはめている、といったたぐいの夢想だった。しかしそんな想いを誘ったショパンの音楽もいまや時代おくれで、その美しさは色褪せたように思われた。数年前から玄人筋が評価しなくなり、かつての声望と魅力は失われていたし、鑑賞力のない人でさえそこにこっそり月並みな喜びを見出すだけだった。カンブルメール夫人は、そっと背後を見やった。若い嫁が、ショパンを軽蔑し、その演奏を聞くのを苦にしているのがわかっていたからである。しかしワーグナーを崇拝するこの嫁はかなり離れたところに同じ年ごろのグループといっしょにいたから、その監視を逃れたカンブルメール夫人は心おきなく甘美な印象に身を任せることができた。レ・ローム大公夫人も、同じような感動を覚えていた。生まれつき音楽の才能があったわけではないが、十五年前にフォーブール・サン=ジェルマンのピアノ教師からレッスンを受けたことがあった。(p.319-20)

→ 一昨日の日記で紹介した「岩瀬ゆうこ」のラッピングを施されたライトレールを、その翌日、早速、見かけた。
この一文を読むと、明らかに作家プルーストのショパンに対する評価の低いことが分かる。
小説の流れの中で、何らかの必要に応じて、「そんな想いを誘ったショパンの音楽もいまや時代おくれで、その美しさは色褪せたように思われた」とか、「ショパンを軽蔑し、その演奏を聞くのを苦にしているのがわかっていた」云々と書いているわけではないと云える。
本書の註によると:
ショパンの音楽は世紀末には顧られず、再評価は生誕一〇〇年の一九一〇年頃。プルーストは一九〇九年頃、草稿帳の余白に「この病的で、感じやすく、利己的で、ダンディな大芸術家」の音楽について「行動の狂熱に捉えられているときでさえ、あくまでおのが内面に閉じこもろうとする病的な調子を捨てようとしない」と書いていた(『サント=ブーブに反論する』出口裕弘・吉川一義訳)。
← マルセル・プルースト【著】『失われた時を求めて 〈2〉 スワン家のほうへ 2』(吉川 一義【訳】 岩波文庫) この表紙カバーの絵は、プルーストが友人レーナルド・アーン宛書簡に書きつけたいたずら書き。人物の横に、「マネの描いたレジャーヌの肖像」という注記があるとか。レジャーヌは、サラ・ベルナールとともにプルーストが高く評価した当時の女優(以上、本書よりの情報)。
老婆心ながら説明しておくと、ここにある『サント=ブーブに反論する』出口裕弘・吉川一義訳)は、云うまでもなく、「プルーストは1908年頃から「サント=ブーヴに反論する」という評論を書き出し、そこから徐々に構想が広がり、『失われた時を求めて』の題を持つ小説になっていった」ものである。
「この病的で、感じやすく、利己的で、ダンディな大芸術家」とか、「行動の狂熱に捉えられているときでさえ、あくまでおのが内面に閉じこもろうとする病的な調子を捨てようとしない」といった評価は、ほんの少し視座を、評価の力点を変えると、絶賛に至る、ギリギリの位相にあるように思える。
ショパンの音楽性のかなり深いところを突いている、とも云えそうな気もしないではない。
小説の上掲の箇所を書いたのは、一九〇九年頃で(あるいはその前か)、小説自体は、1920年代に完成しているので、その頃までにはあるいはショパンに対する評価が変わったのか、それとも低いままなのか、追々本書の続きを読んでいく中で、分かってくることなのかもしれない。
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コメント
時代の流行も趣味も、作者にとっては、文明論や人文科学的なものではなくて、感覚的な襞を描いていく位相の対峙でしかないのかもしれませんね。こうして、ある芸術作品の一面をルーペで覗き込ませることで、万華鏡のような不思議な感覚が描き出せることは想像できます。但し、少なくとも村上のシューベルトやビートルズのように「具体的に引用」までしないと、観念連想とはなりませんから、その辺りが作者の狙いに違いないのでしょう。少なくとも当時はレコードは普及していなかったわけですから。
投稿: pfaelzerwein | 2013/07/30 12:49
pfaelzerweinさん
作家にも、いろんなタイプ、手法を取る人がいるのでしょう。
音楽にしても絵にしても、時代の中の評価を(相当程度)絶対的なものとして、それを前提に叙述を展開するタイプもいれば、自分の評価すら相対化して、作品の中に織り込む人もいるでしょうし。
自分の感覚と評価を信じなくて、どんな営為もできるはずがないけれど、表現の途を最高程度の集中度で辿っていると、自然と結果的には自らの価値観すら擲つこともあるのでしょうね。
表現の妙の面白さ。ここにこそ、作家の醍醐味があると思えます。
投稿: やいっち | 2013/07/30 22:16