「点々は 宇宙を攪拌しないのです」
我々は攪拌された宇宙の片隅に点在する点々なのかもしれない。星の一つ一つが、我々の誰彼の心の投影なのかもしれない。
道端の石ころや空き缶にしても、誰かの眼差しに晒される。
梅雨の束の間の日の光にジリジリと焼かれて、つい、本音を洩らしそうになる。
もう、昔のことは忘れちまったとか、先のことなどどうでもいいだとか。
なのに、日が暮れて、宵闇が訪れると、今度はまた、違う本音が洩れてくる。遠いあの日のことが胸を差すとか、いつの日かの破局を予感するだとか。
わがまま一杯の梅雨の谷間の呟き。
きっと、今夜の雨に呆気なく流されていくんだろうな。
(この意味不明の感想詩については、「点々は 宇宙を攪拌しないのです 壺中方丈庵」など参照。)
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コメント
我々、という自我とか意識とかが、
仮に、いちおうはあるとして、
我々は、我にもあらず、いつでもころころ変わります。
六道輪廻、
天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄をくるくる廻ります。
我々の世界が、
それ自体客観的に存在していること、
それだけですべてが描き出せるのなら、
世界はどんなに簡単でしょうか。
難しくしている側が、
言う台詞ではないと、
宇宙は言うでしょうけどね。
投稿: 青梗菜 | 2013/07/30 21:57
青梗菜さん
要諦の全ては、「我々は攪拌された宇宙の片隅に点在する点々なのかもしれない。 星の一つ一つが、我々の誰彼の心の投影なのかもしれない」にあります。
我々が、ちょっと不遜な表現のきらいなしとしませんが、まあ、感情の昂ぶりと見逃してもらうとして、我の一点が表現の座標軸の中心にあるしかないのでしょうね。
その色眼鏡を離れては何も描けないし考えられない。
なんだか、プラトンの洞窟のドグマを薄めた話をしているような。
ただ、物事を難しくしている何か(我)も、宇宙の中にあるのだということだけが、自らを正当化する僅かな理由です。
この宿命(?)を離れることはできないでしょうね。
投稿: やいっち | 2013/07/30 22:33
我の一点が、表現の座標の中心軸にある。
それをカントは、超越論的統覚と難しい言葉を使う訳ですが、仏教が、教えるように解脱したら、我はどうなる?
心頭滅却すれば、火もまた涼しとな。
どなたの詩に寄せて書かれたのか、わからないのが惜しい。
投稿: oki | 2013/07/30 22:58
okiさん
この野暮な詩作成のいきさつは、リンク先にて説明してあります。
ただし、この詩を触発した元の詩(サイト)は、既に閉鎖されていて、元の詩を知るすべはありません。
非常に残念です。
投稿: やいっち | 2013/07/31 22:27