星だけが知っている
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我々は攪拌された宇宙の片隅に点在する点々なのかもしれない。星の一つ一つが、我々の誰彼の心の投影なのかもしれない。
道端の石ころや空き缶にしても、誰かの眼差しに晒される。
梅雨の束の間の日の光にジリジリと焼かれて、つい、本音を洩らしそうになる。
もう、昔のことは忘れちまったとか、先のことなどどうでもいいだとか。
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マルセル・プルースト著の『失われた時を求めて 〈2〉 スワン家のほうへ 2』をゆっくりじっくり読み続けている。
今のペースだと、この二巻目を今月中に読了するのは、難しそう。
← 日曜日午後の激しい雨と風。ケーブルを伝う雨滴がやがて滴り落ちるのを眺めていた。
まあ、慌てる必要など何もない。
小説を読むと、プルーストの絵の好みが分かって、話の本筋には関係ないものの、これはこれで興味津々である。
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或る日、私は思い立って、庭の一角に石を積み始めた。
積むためには、石が要る。大小など問わないでいいようなものの、どうせなら粒揃いのほうが見栄えがする。
石そのものは、街中にどれだけでもありそうだった。
← 「岩瀬ゆうこ」 (画像は、「PL02 岩瀬ゆうこキャラクター紹介鉄道むすめ~鉄道制服コレクション~」より) 「富山ライトレール富山港線の13駅中11駅において、鉄道むすめ巡り2ndが開催中である旨を伝えるポスターが各駅にて、7月27日から9月30日まで掲示されます」(「鉄道むすめ富山ライトレール駅ジャック計画、岩瀬ゆうこの特大POPも設置(H240727~H240930) 蜃気楼の如く」より)とのこと。 なお、画像と本文は何の関係もありません。
道路を自転車で、歩いて通れば、路上に一個や二個は必ず目にする。
言うまでもないが、人の敷地から拾うわけにはいかない。
石の出所は、あるいは、誰かの家の庭から砂利石の一個など、転がり出たものだろうが、とにかく、道路上にあるものを拾う。
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今日、久しぶりに草むしり。
上下、作業着に着替えて本格的に。
マスク着用、麦わら帽子、手には無論、作業用手袋。長靴なのは言うまでもない。
昨年までは、春から秋口にかけて、雨の日以外はほぼ毎日、草むしり作業に携わった。
大して広い庭や畑があるわけじゃないが、一日、二時間として二週間で一巡する。
ようやく一回りした頃には、最初に手を付けたところが憎たらしいほど立派に草茫々となっている。
で、また、二週間ほどを費やして一巡り、の繰り返しで、気が付くと秋口となっている。
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今日は参議院の投票日である。
今回ほど、投票へ行くのが気が進まないのも、初めてのような気がする。
東京や大阪など大都市は、泡沫(?)候補も含め、各党からの立候補があって、それなりに選択の余地がありそうに見える(見えるだけかもしれないが)。
が、富山などは、与党の自民党はともかく、他は共産党と宗教団体の党などお諸派で、要するに選択の余地が極めて狭い。
本来なら(少なくとも嘗ては期待された)民主党が立候補させるべきだったが、それがない。
負ける戦はしない?
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連日、猛暑が続いていたが、この数日は、低気圧の影響か、朝は21度前後、日中の最高気温は30度をやや上回る程度と、平年通りの気温の日々が続いている。
今日にしても、こうした気温で、非常に過ごしやすい。
→ アンドレア・マンテーニャ「聖セバスティアヌス(San Sebastiano) 」(1458-1470年頃 68×30cm | テンペラ・板 | ウィーン美術史美術館) この作品は、1910年にルーブル美術館に収められた。プルーストもこの画を見ていたものと思われる。小説の中では、ある登場人物を評するに際し、次のように描かれ、この絵が参照されているようだ。:「しかし私には、このゲルマントという名前を耳にしたとたん、わが家の友人の青い目の真ん中に、目に見えない針先で突かれたように小さな褐色の切れ目が穿たれ、それにたいして瞳の残りの部分から青い波が分泌されるのが見えた。瞼の隈は黒ずんで下にさがり、口元にはひとすじの無念の皺が寄った。ルグランダン氏はすぐに気をとり直して笑みをうかべたが、そのまなざしは身体に矢を打ちこまれた美男の殉教者の視線と同じで、いつまでも痛々しかった。(本書 p.282-3)」 ちなみに、美男の殉教者とは、聖セバスティアヌスのことである。描かれているセバスティアヌスの哀れな目を見よ! 「(画像は、「アンドレア・マンテーニャ-聖セバスティアヌス-(画像・壁紙) サルヴァスタイル美術館」より)
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帰郷して間もない頃、近所のお寺の住職に招かれ、しばしの時を過ごしたことがある。
本堂の一角に卓球台があって、卓球に興じ、その後、居間(客間)でお茶を喫しつつ、しばしの歓談。
お寺の中を案内してもらって、その意外に広いことに驚いたりした。
← 「ダイソン・エアマルチプライヤー」 (画像は、「エアマルチプライアー - Wikipedia」より)
お寺も何年か前、建て替えされ、大きく様変わりしたが、住職の住居のほうも、建て増しを繰り返し、随分と部屋数が増えている。
読書(本)好きということもあり、二階の書庫には、数千冊、あるいはそれ以上の本がギッシリと詰め込まれていた。
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小生の部屋では扇風機が大活躍している。今の扇風機で、一体、何代(台)目になることやら。初めて扇風機を買ったのは、いつのことだったか、もう、そんなことも覚えていない。
部屋にはエアコンがあるが、冷房に弱いのか、めったには使わない。それでも、この夏は極端に暑く、とうとうエアコンのお出ましを願うしかないようである。
数年前だったか、先代の扇風機がとうとう故障してしまった。今の扇風機は実はもらい物なのである。暑くて苦しいなんて騒いでいたら、優しい方がプレゼントしてくれたのだ。下手なことを言うものではないと思った。自分としては、そんな貧乏生活もエッセイなどに書いている。つまり、ネタにしているというわけなのだ。
でも、それを可哀想と思ってしまわれる方もいる…、その点への配慮が足りなかったと反省している。
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過日、暇の徒然に、桜井 進著の『感動する!数学』を読んでいたら、数字の【0】は、日本語では、「ゼロ」と「レイ」と言い方と読み方がある、読み方での異同は、という話があった。
→ 畑や庭のあちこちに、グラジオラスが花盛り。拙稿に「グラジオラスは恋の花(後編)」などがある。
グラジオラス恋の剣と天を突く (や)
事故での死者の数は、ゼロだが、レイとは云わない。
ゼロは数学の0で皆無を意味する。
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プルーストの「失われた時を求めて」を読み始めた。
今日は、かの有名なマドレーヌの場面。
← ジャン=バティスト・カミーユ・コロー 《シャルトル大聖堂》 (1830年、1872年に加筆 油彩、カンヴァス 縦64 cm、横51.5 cm ルーブル美術館) 本書によると、「プルーストは1920年、ルーブル美術館が所蔵するフランス絵画の傑作8点を選ぶアンケートに答え、その1点にこの絵を挙げているとか。だが、小生も一瞥して感じたが、「この画面構成は見る者を一目で驚かせる。三本の木、敷石、家並みの見える「空地」が、聖堂の巨大な身廊と尖塔と対照を成している。尖塔を隠すと建造物は画面全体に溶け込むのだが、そうでなければ全体の均衡は安定しない。この点について1872年にコロー自身も批判しており、前景の岩塊の上に座る少年を描き加えることによって改善を試みている」とか。(画像は、「ジャン=バティスト・カミーユ・コローの《 シャルトル大聖堂 》-高品質複製画販売ならワールド・マスターピーシズ.JP」より。情報は、「《シャルトル大聖堂》 ルーヴル美術館 パリ」より)
評論家としても有名なプルーストは、絵画への関心も深い。一方、映画などの映像への評価は、どうか。
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昨日の日記に書いた事情もあって、昨日、中元をデパートに買いに行った。
そのうち、暑中見舞いの葉書も関係者を中心に送る。
→ 自作のプチトマト。初めて食べた。美味かった!
そのことで、昨年、三回忌が済んだことを銘記してもらうことにする。
それはそれとして、今年後半は、プルーストの「失われた時を求めて」を読み通すことにしている。
なので、過日、「1 スワン家のほうへ I 」(吉川 一義 訳 岩波文庫)を買い求め、昨日から読み始めた。
読み始めたとなると、手元に第一巻しかないのは、何か心許ない。
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うだるような暑さ。しかも、まだ富山(北陸)は梅雨が明けていない。
我が家には古いがちゃんとエアコンはある。
→ 土曜日、収穫を怠ったばかりに、今日は収穫が山盛り。キュウリは育ちすぎてしまって…。あちこちにお裾分け。自分は、今回は見合わせる。冷蔵庫に作り置きの浅漬けがたっぷりある。
けれど、昨年もサンシェード(日除け)で暑さをしのいだように、あわよくば今年もエアコンは使わずに…と思っているが、どこまで耐えられるか分からない、自信がない。
日中、組合の寄合があり、二時間ほどミーティング。会議の内容を纏め、原稿に起こすのが小生の役目だが、話の内容が多岐に渡り、ドンドン、飛んだりするから、メモもまともに取れるはずもなく、どう要点をまとめるか、頭が痛い。
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梅雨の終りを告げているような、不穏な雨模様の中、グウェン・ラヴェラ著の『ダ-ウィン家の人々 - ケンブリッジの思い出』を読み終えた。
→ 富山点景 「 富山県富岩運河環水公園」
粗忽者の小生、ダーウィンの生きた当時の社会を活写してくれる本だと思い込んで、早まって買ってしまったが、当てが外れた。
本書は、19世紀末のヴィクトリア朝の窮屈な建前社会を生きる、女性たちの暮らしぶりや息遣いが生き生きと書かれている。
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二週間ほど前から読み始めていた、『ちくま文学の森 〈2〉 心洗われる話』を昨日、読了した。
最後に読んだ、長谷川伸の「瞼の母」や宮本常一の「土佐源氏」は、実に久しぶりに接する作品で、懐かしさの念もあり、入れ込んで読んでしまった。
← 長谷川 伸【著】「長谷川伸傑作選 瞼の母」(国書刊行会) 長谷川 伸は、「大衆文学の父と呼ばれ、池波正太郎や藤沢周平らの時代小説の原点とまでいわれる作家である。その戯曲や小説は、いまも大衆演劇の劇団が演じ続けている」。
「幼くして母と生き別れ、父とも死別した無宿渡世人番場の忠太郎が、母を探し求め、再会し、再び別れるまでの物語」である。
(筋書きは、「映画瓦版」の中の「瞼の母」参照)
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昨日から不穏な空模様。カラ梅雨だったのが、昨日の未明から雨が降り出し、風も吹きまくった。
畑や庭木には恵みの雨だったが、天は、大雑把というか、水不足? だったら、これでどうだとばかり、しとしとではなく、ザーという本降りの雨をもたらす。
九州などのような集中豪雨ではないが。
→ 今日の収穫。隔日ごとに、これだけ採れる。キュウリ3本だけ、浅漬け用に残し、あとは知り合いにあげた。
不穏な空模様と書いたが、それまでわりとカラッとしていたのが、低気圧のせいで、急にジトッとし始めたこと、前日の穏やかな陽気とは打って変わって、風が出てきたこと、何より、空の雲が黒かったり、動きや変化が激しかったり、日中でも暗い雰囲気が漂ったりと、昔なら幽霊の登場しそうな舞台を思わせるからだ。
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「華名橋と桜橋の間にあるこの照明灯は、大正2(1913)年、富山市で初めてのガス燈がこの地で点灯されたのを偲んで、昭和63年11月に再現して立てられたもの」。
つまり、今年は、「富山市内で初めてのガス燈」が設置されて百周年に当たる年なのである。
けれど、誰も話題にしない。
← 華名橋と桜橋の間にある照明灯。往時のガス燈を偲んで設置された。
話題の遡上に載せるほどの意味も意義もないということか。ちょっと淋しい。
小生自身は、気が早いというか、昨年、「華明橋のたもとに立つガス燈」なる記事を書いている。
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遠い昔、私とは一個の他人だと、誰かが喝破したのだった。
が、20世紀になって、一個の他人であろうと何だろうと、あらゆる輪郭付けの試みの一切を呆気なく放棄せざるをえないほどに、<私>は見えなくなっている。誰かが言ったように、私とは、せいぜいのところ雲なのだ。下手すると霧のようにやがては日の下では雲散霧消を余儀なくされている散漫なる点の粒子のたまさかの凝集に過ぎないのかもしれない。
私の中の得体の知れない盲目的な<意志>が、懸命に散逸しバラけていく霧の薄明を、せめて雲ほどには、そう、遠目には、一個の塊であるかのように、必死な思いで私の片鱗や欠片たちを掻き集めているのだ。
そう、私とは、懸命に私を私と叫びたい、悲鳴に他ならないのだ。
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