紫陽花や雨の音さえやわらかに
この数日、雨模様である。火曜日にはようやく北陸(富山)も遅い梅雨入りとなった。
火曜日の夜半から水曜日の午後までは、土砂降りの雨。
カンカンに乾いていた畑や庭が潤う…どころか、溺れそうなどになった。
→ 紫陽花や雨の音さえやわらかに (や) (「紫陽花や雨の音さえやわらかに」より)
雨に似合う花・紫陽花も、たっぷりの雨に息を吹き返したように瑞々しくなっていた。
そう、梅雨というと紫陽花と、安直な連想ばかりが働く小生、梅雨の季節ともなると、紫陽花絡みの小文を毎年のように書いている。
今日は、紫陽花関連拙稿からのダイジェスト特集と洒落て(?)みる。
「紫陽花のこと…七変化」
水墨画などのように、墨一色、単色の世界であっても、描く技術と工夫によって、観る者に空の青から草の緑、土の色、霧の漂う感じ、水面の波紋、鳥の体の小さいながらにふっくりした息衝き、森や林に生きる様々な動物たちの生態、そういったものがまさにそこにあるものとして描かれていると思わせてくれる…、ちょうどそのように、紫陽花の小さな花びらたちも、土壌や天候などに微妙にかつ敏感に影響を受けて、その淡い紫を変幻してやまない、そういったパステル調だったり、牧歌的だったり、墨絵的だったりする、そんな微妙な変化を感じ取っていれば、それでいいのかもしれない…。
「梅雨のあれこれ(紫陽花編)」
物の本によると、紫陽花は少なくとも奈良時代には日本でも見られたようだ。梅雨の頃ともなると、なんとなくモノトーンな色彩になりがちな日本の風土にあって、雨の中でも紫陽花は鮮やかで、とても映える。あんな淡い色調の花なのに、どうしてクッキリと浮かび上がって見えるのだろう。
何か天然の蛍光色の成分でも入っているのだろうかと、勘ぐりたくなる。
「紫陽花の花言葉は…移り気」
紫陽花の花言葉は「移り気」だとか。思うに、これほどピューリタンから遠い心性はありえないかもしれない。
いかにも日本的なウエットな花、紫陽花。
「紫陽花は日本を象徴する花 ? !」
花のようで花ではない、なのに紫陽花の花というとよく目にする小花の群れ(花びらに見えるのは本当はガク、その集団が花に見えている)であり、どこか印象が淡く、曖昧であり、土壌の性格などで色合いが微妙に変わり、咲き始めると印象的なようなのだが、いつの間にかその盛りの時期が終わっている。
紫陽花は天気がいいと、色が褪せてみえたりするけど、陽光に負けない紫陽花の花もある。
「紫陽花の雨に降られて背伸びせん」
いかにも梅雨という雨であり、空だった。午後、雨上がりかなと思える瞬間があったので、買物に出かけたが、店を出たら雨がまた降り始めていて、夜になった今も降り続いている。明朝まで激しい雨が続くとか。紫陽花は、何故か雨が似合う。そんな思い込みがあるからなのだろうか。淡い色彩だから、曇天だと映えないはずなのに、文字通り瑞々しい。
「シーパラダイスで紫陽花」
いずれ、紫陽花(アジサイ)の語源を辿ると曖昧の闇に呑まれていく。
だったら、小生風に、遠い昔、誰かが道端に咲く可憐な小花の花を見て、思わず、「あ、ちいさい!」と叫び、それがいつしか語呂上、転訛して「あ、ちさい」「あじさい」となったのではという推測を施しても、それほどひどい非難は受けないのかも…、というわけにはいかないか。
「季語随筆拾遺…紫陽花と雛罌粟」
紫陽花は、土壌の酸性度に微妙に影響され、「アジサイの色素が酸性の土壌では青色が強くでて、中性、アルカリ性 の土壌では赤色が強くでることに起因していると」考えられているとか。但し、それもあじさいの種類により、必ずしもそうではないとか。
死体が紫陽花の花の直下の土壌に埋まっていると酸性度が高まるという理屈を生かした物語のようですね。(但し、他にもそういった小説があるのかもしれない)。
さらに調べてみたら、上述の理屈への異論を唱えるサイトも見つかった。
← 畑のプチトマトが生り始めている。火曜から水曜日にかけての強い雨に、幾つも実が落ちていた。紅くなるまでもう少し、頑張っていてほしい。
紫陽花関連拙稿には、他に、「紫陽花ばなし?」などがある。
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