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2013/06/15

ヌードと裸 それとも毛嫌いされる毛

 今日は、久々の雨天である。
 しとしと降る雨で、庭も畑も潤っている。女性の肌もしっとりしていることだろう。
 
 そんなそぼ降る雨の中、外仕事も叶わず、フィリップ・カー=ゴム 著の『「裸」の文化史』を一気に読了した。
 ハダカへの好奇心で選んだ本だが、案外と考えさせられることも多かった。

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→ 絵画による裸婦の表現例 (画像は、「ヌード - Wikipedia」より)

「ヌード」なる言葉は、「日本語においては「ヌード写真」「ヌードシーン」のように、彫刻・絵画・写真・映画といった創作物における裸に対して使われることが多い
 一方、「裸(Nudity より Nakedness か)」は、「人間が衣服をまとわない状態を指す」。あるいは、「「生まれたままの姿」との表現がなされる場合もある」。

 一説に、ヌードは人に見られることを意識した無着衣の状態で、裸は単に服を着ていない状態、なる区別がある。
 つまり、ヌードは芸術に、裸は浴室に属する、あるいは裸は自然体を、ヌードは理想像をあらわす、というわけである。
 こういった俗説は、ヌードがフランス系のノルマン語に由来し、裸(Nakedness)は、ゲルマン系のアングロ・サクソン語に由来することとも関わりがあるかもしれない。
 フランス人やドイツ人は、裸とヌードを使い分けず、同義語として用いている、という(本書より)。

 本人が芸術ぶって、ヌードを描いている、ヌード像を造形している、ヌード写真を撮っているつもりでも、見るものが見れば、それはハダカに他ならないことも大いにありえるわけである(ほとんどは…、少なくとも小生のような素養のない無粋なものは、ヌードとハダカの区別など、度外視して、興味本位で観る。ヌード写真集は、撮影者が高名だろうが無名だろうが、一切度外視する。像だけが肝心である。エロ雑誌と区別することはない)!

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← フィリップ・カー=ゴム 著『「裸」の文化史』(中島 由華訳 河出書房新社) 著者は、ケルトの宗教であるドルイド教研究の第一人者だとか。裸への好奇心で手を出した。 (画像は、「「裸」の文化史 フィリップ・カー=ゴム,中島 由華|河出書房新社」より)

 小生にしても、考えもなく俗説に従っていたことをちょっと反省。
 ハダカ、それも若い女性のハダカを見たい…というと、顰蹙を買ってしまう。
 建前として、好奇心とスケベ心でいる自分に対しては、軽蔑するような表情を示すのは分かるが、一歩、掘り下げると、考えさせられることも多いだろう。

 人類は、サルと進化の何処かで別れ、徐々に(かどうか分からないが)体毛を失ってきた。
 同時に(かどうか分からないが)、着衣を当たり前の状態として選んできた。
 二十世紀に入って、特に後半からは、「女性が頭髪、眉毛、まつげを除くほぼ全身の体毛を剃ってい」くようになった。

 わき毛や産毛、脛毛などは、街中では見ることすら叶わない。
 それどころか、眉毛やまつ毛だって、とことん痛めつけられている。
 女性どころか男性も。
 体毛の喪失の圧力は、強まることはあっても、緩むことはなさそうである。
 体毛を忌避する理由としては、薄着や外見への意識もあろうし、化粧品やエステ業界などからの洗脳もあろう。

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← 島泰三著『はだかの起原―不適者は生きのびる』(木楽舎) 「寒暖、風雪、晴雨にかかわらず、常に体を守る完璧な衣類となる毛皮。なぜこんなに大切なものを、人間は失ったのだろうか? 人類の裸の起源を学術的視点から考察」といった本。拙稿「はだかの起原、海の惨劇」では、海難事故で海に投げ出された人間の悲劇を肌の側面から観る。 (画像は、「はだかの起原 - 島 泰三【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア」より)

 小生が高校生の頃は、同じ年代の女子高生は、わき毛は当たり前だったようだし(そんなに確かめる機会があったわけではないが)、眉毛も太い人は太いままだったと記憶する。

 むだ毛の処理の圧力は、今や局部の陰毛にも及んでいて、女性もだが、男性も陰毛は風前の灯状態…らしい(それほど確かめる機会に恵まれていないので、断言は避けておく)。
 仄聞するところによると、女性の眉毛は、江戸時代の既婚夫人を気取ってか、綺麗に剃られて、目にしえるのは、描かれた疑似まつ毛らしい。
 髪の毛だって、ウイッグやもしれない。
 自然を大切にする、そんな呼び声や願いは、人間の体毛には届かないようだ。

 一旦、失ったら、失い続けるしかない。毛嫌いし始めたなら、とことん毛嫌いされる。日々、その処理に追われる。後始末のためのケアも欠かせない。
 
Hachimaki

← 長島はちまき著『美術モデルのころ』(basilico) ヌードではなく、ハダカを着衣の人たちにじろじろ眺められるモデルの心理を知りたいという興味本位で手にした本。この挿絵たっぷりのエッセイは、終始「私、レンアイ第一主義です」という彼女のモットーに貫かれている。漫画家デビューを懇願しているが、しかし何より「レンアイが1番、仕事が2番」で、「だからいつも貧乏だった漫画家」さん、なのである。 拙稿「「美術モデルのころ」の周辺」参照。 (画像は、「basilico - 美術モデルのころ - 長島はちまき(著)」より)

 人とサルの決定的な違いは、体毛への忌避にこそ見いだされそうだ。あるいは、自然な状態への恐怖にも似た忌避の念。
 それは、人に見られることを意識する人間の宿命なのかもしれない。

 ラフで気軽で…と思いつつ、ラフな格好をするには、日常の相当な手入れが必要だ。
 人はハダカの心で付き合いたいと思いつつ、肌から毛を毟り取って、剥き出しの素肌の状態になって、肌と肌との付き合いが深まるはずなのに、逆に疎遠になるのではという不安感を覚えている。
 ハダカの状態は薄い着衣のすぐ下にあるのに、それは何処までも秘されるべき闇に沈む。


ヌード(ハダカ)関連拙稿:
草刈民代写真集『バレリーヌ』新聞広告写真を巡って」(2010.05.28)
浅草サンバカーニバルから(8)…照明の下の真珠たち」(2008/09/10)

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コメント

Nudeと、Nakedですね。
考えてみれば、浮世絵にも春画と言うものがあるし、しかし、春画はなかなか展示されないし、ハダカとかセックスは、人間の本性に関わるから、誰しも関心がありますよね。
ヌードを描く、裸婦を描く、まあ明治になって西洋美術が入ってきていろいろ論争があったわけですが、逆に男の裸を描く、例えば十字架に処せられたイエスを描くとき、西洋の画家は、イエスは何も身に纏っていないはずなのに、局部を描くのは恐れ多いと腰巻きみたいのを付けて描きますよね。面白い。
あと思い出すのは宮崎美子ですか、コマーシャルの撮影で沢山モデルがいた中で、水着?に着替える恥じらいの場面で一人コマーシャルの主役に抜擢されましたね。

投稿: oki | 2013/06/15 18:41

oki さん

人が人たることを、あるいは自分が自分であることを確かめづらい時代だからこそ、自らの肉体性にこだわる。
その肉体性を確める一番、直接的な方法の一つが、衆人環視の中でハダカになること、でしょうね。
着衣の人たちが周りを囲み、好奇心や憐み、驚きの念で眺めている中、無防備の極みである、フルヌードで立ち尽くすことは、その人に際限のない自己反省を強いるでしょうね。
ヌードモデルとか、ストリッパーとかは、ヌーディスト村のヌーディストより自覚的なんだなーと、感じ入ります。

投稿: やいっち | 2013/06/15 21:48

無毛は不毛につながります。
体毛を処理して、頭髪を増やそうとするのは、精神の不毛のあらわれです。(笑)

投稿: Bookers | 2013/06/16 02:50

「人とサルの決定的な違いは、体毛への忌避にこそ見いだされそうだ」 - この手の話になると黙っていられないのです。恐らく毛を剃る行為は宗教的な背景があって、現在ではモスリムや神道が最も顕著かと思います。不浄に近い概念が共通しているかもしれません。その背景には、例えば68年当時に学生革命が成功した西洋と反動が残った偽西洋化した諸国との差があるかと思います。女性蔑視の傾向は明らかで、女性の陰毛を猥褻とし続けた日本の法律とイスラム圏の頭巾は相似的と考えます。

剃ることの不自然とは別に、例えばアラキーなどは其れを逆手にとって卑猥さの概念を強く意識させますが、それ以外にもその傾向のヘアーヌードというのが解禁後に日本では続いたのではないでしょうか?勿論今でも公然では性器そのものの表現には制約がありそうですが、そこまで公にしないと本来の陰毛の役割は社会的な認知を得ないに違いありません。

これに関しては様々な説があるようですが、つまり陰唇とか毛並みとか何とかの人種的な問題ではありえないと思われます。究極的な即物的で合理的な視野や視点を持たずに、何処まで行っても三重苦・四重苦でありたいとする日本人の願望がその毛を剃らせるようです。まさに精神の不毛ですね。

投稿: pfaelzerwein | 2013/06/18 04:08

pfaelzerweinさん

ハダカへの拘り。体毛をとことん忌避すべしという、化粧品やエステ業界などによる、社会的圧力の凄まじさ。
わき毛も眉毛もまつ毛も貪られ、腕の毛、脛毛、産毛も毟られ、髪の毛さえ、弄繰り回され、今や、陰毛も虎視眈眈と狙われている。
敢えて残すべきか、そり落としてしまうか、瀬戸際の攻防の最中ですね。
陰毛は野性の最後の抵抗線にも見えてきます。

小生は、駄文として、『ヒトはいかにして人となったか』(蛇足篇)を書いたことがあります:
http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/hobby/hitogahitoni.htm

ハダカへの志向と嗜好には、体毛は邪魔なんですね。陰毛も邪魔。だけど、陰毛がゆえに野性の呼び声が幽かに聞こえるようでもある。

剃毛しての営為は不毛なギャグのようでもあります。

投稿: やいっち | 2013/06/19 22:22

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