青い空と白い雲と言葉と
モーリス・ブランショ 著の『来るべき書物 』などを読んでいるせいか、妙に言葉それとも言語なるツールのことが気になる。
遠い昔、同じくブランショの『文學空間』を読んだ際も、ブランショのパセティックというのではないが、(自分にはやや)高踏的な語調に振り回されたものだった。
フランス(語)系の文學や哲学の著書には相性が悪い…と云えば、ブランショの世界に馴染めない理由としては、あまりに言い訳としても程度が悪い。
原語がフランス語とはいえ、翻訳で読んでいるわけで、その本来の言語表現に多少でも触れているわけではない。
学生時代、哲学の絡みでラテン語を学んだことがある。
学生時代、ある知人に、ラテン語を齧っていれば、フランス語への敷居もそんなに高くないよ、なんて云われたことがあった。
小生がフランス語が敬遠気味なのは、実のところ、発声であり、要は、喋るのが困難に感じられるからだった。
だから、第二外国語としても、フランス語ではなく、ドイツ語を選んだ。
やがてはカフカを、そしてヴィトゲンシュタインの本を原書で読みたいと思っていたからだ(これらは、微々たる形では実現した)。
フランス語の口先だけのパロールより(← あくまで印象に過ぎない)、ドイツ語特有の時折の喉の奥からの発声が、言語に何か存在に迫るような、あるいは存在者からの喚きや呻き、叫びが存在の地平面から噴出しているかのような印象を受けた。
言語は、どんなに表現を尽くしても、現実の前では無力だ、という言い草がある。
例えば、今日6月3日は、雲仙・普賢岳で発生した大火砕流から22年の日である。
猛烈な速度で襲い掛かる火砕流の前には、消防団員すら犠牲になったし、被災者らのどんな祈りも悲鳴も意味をなさなかった。
いや、そんな大事件でなくてもいい。
路傍にひっそりと咲く名もない花の可憐さ。吹き渡る風にやんわり揺れて、心地よさげだ。
あるいは愛しい人の後れ毛の柔らかさをどう表現しよう。
水面の揺らめきは滑らかさ、どこまでも静かで深い透明感をどう描けばいいだろう。
ほんの僅かでも、この拙い言葉で何かを伝えているかのようであるとしたら、それは、読み手側に深い理解力があるとか、そうでなくとも、それらがありふれた光景であるから、自らの脳裏に自らなりの思い出の光景を浮かべるからに過ぎない。
万が一にも、自分が誰も観たことのない世界を、あるいは観たことのないような色合いや形、動き方をする何かを観たとして、それをどう表現できよう。
青い空と白い雲。
これほど簡明な世界はないし、分かりやすい表現もない。
誰もが同じような世界を思い浮かべるに違いない。
が、違いないだけだ。
実際に、ある場に集まって、「青い空 白い雲」で、どういった光景を脳裏に浮かべたか、それぞれに語り始めたら、最初は誰もが似たり寄ったりの世界を想定していたはずが、段々と微妙な違いに気づき始め、やがては、ともすると、とんでもなく捻じれた、似て非なる世界に分け入っていて、それぞれが決して交錯することなどないことに気付いて、愕然とする、なんて事態もあっても何の不思議もない。
ある思い出がある。切ない、懐かしい思い出。悲しいかな写真の一枚もなければ、それが事実だったことを証しする紙切れ一枚もない。
無論、証し立ててくれる相手はもうこの世にはいない。
私だけの思い出、脳裏という他に代替えの不可能な暗幕にこそ映る、触れれば血の吹き出るほどに熱い、痛い非存在の呻き。
← モーリス・ブランショ 著『来るべき書物 』(粟津 則雄 翻訳 ちくま学芸文庫) 流し読みしているのに、なかなか読み進められない。
でも、胸の中に、閉じた目の中に、思い出は厳然と存在している。誰が何といおうと、それは私だけの掛け替えのない宝物なのだ。
思い出を語ろうとする。言葉に移し替えてみようとする。鮮烈な体験の一コマ一コマを白い紙面に言葉の連なりとして、世界の唯一性をそのままに転記してみようとする。
可能だろうか。
やがて、思い出は語り得ないことに気付かされる。
思い出は、波打ち際で消えゆかんとしている、はかない砂浜だ。
寄せては返す波に次第に浸食されていくばかり。
思い出によっては、すっかり様変わりして、コンクリートで護岸されてしまっている。
足跡の一つすら、残ってはいない。
そこにあなたはいないし、私もいない。そもそも海岸へ至る道すら、掻き消されてしまって、あなたも私も迷子なのである。
今に生きる…その大切さを痛感しつつも、今とは過去の積み重ね以外にありえないとしたら、波に風に時に浸食されてやまない自分とは一体、何か。何処に生きていると云えるのか。
そうして時に人は虚構の世界へと分け入っていく。
そう、私のような諦めの悪い人間は、過ぎ去った、そして過ぎ去りゆく時空の掛け替えのなさを断念などできないのだ。
→ 青い空 白い雲 (画像は、「百鬼夜行:クラクションが発端でした事件」より)
何か生の存在がそこにある。
触れれば温もりを覚える、ありふれているのだけど、それでも稀有で貴重な何か。
その私だけの宝物を何としても守るためには、どんな金庫もダメ。過ぎ去って止まないから写真も録画も不能。
そもそも録画可能な世界だったら、何もこんなにこだわったりはしないのだ。
| 固定リンク
「祈りのエッセイ」カテゴリの記事
- 沈湎する日常(2023.02.23)
- 日に何度も夢を見るわけは(2023.02.17)
- 観る前に飛ぶんだ(2022.10.25)
- 月影に謎の女(2019.12.26)
- 赤いシーラカンス(2018.08.30)
コメント
ラテン語習ったのですか!
主語がなく、動詞語尾で判断するから、私あなた、彼、彼ら、それに過去形、未来形、仮定法がありますから、20くらい動詞語尾が変化しますよね。普通の人は覚えられませんよ。
ドイツ語、僕は何度も書いているけど、カントですが、ラテン語がやたら、ドイツ語の中に出て来て参った。
それより、歯茎が痛くて新しい歯医者へ。歯は大切ですね。弥一さん、如何ですか?
投稿: oki | 2013/06/03 19:50
okiさん
ラテン語(の勉強)は好きでした。
大学は、ラテン語も含め、哲学を除いて全て優をもらった。
入学時だったか、数学の好きな人は(得意な人は)ラテン語も得意のはずだと誰かに云われ、真に受けたっけ。
てのは、ウソじゃないかもしれない。
まあ、高校時代から好きで読んでいた埴谷雄高がラテン語好きってのも影響したかも。
いずれにしろ、ラテン語、結構、マジに勉強しました。楽しかった。
歯には苦労しますね。
小生も苦労してます。
お大事ね。
投稿: やいっち | 2013/06/03 23:32
そこは袋小路と、
分かっていて入り込みますね~。
僕も含めてですけど、
ふつうの人は、形而上のあれやこれやを表現する語彙なんて持ってないし、使いません。
幸いなるかな。
そして、よくしゃべります。
思考の型が、話し言葉で、双方向。
袋小路を呆然と眺めながら会話を止める、ってこともない。
それよりも、もっといっぱい散歩して、
たくさん海風を浴びて、たくさん船に乗り、
いろんな場所に行き、それぞれの夕日を眺め、
そのほうが幸せなのを知っています。
そんなときは、理屈はいらないし。
今なんだろうな~、と思います。
過去の積み重ねが今を支えますが、
過去を肯定するのは、今しかないのか、って。
かつて見た、青い空と白い雲、
それを明るく照らすのは、今の言葉か、って。
残念ながら、今はそんなふうに永遠です。
過去はどこにも保存されません。
薄っぺらでいいかな、とも思います。
理屈は、不幸せなのです、たぶん。
幸せなときに、理屈はいらないなら。
不幸せを、なんとか解消しようとして理屈が生まれるなら。
とか言いながら、ぐだぐだと、僕のこの習い性は…。
投稿: 青梗菜 | 2013/06/04 11:45
青梗菜さん
薄っぺらは薄っぺらなんです。
さすがに年の功で自覚してます。
が、それでも悪足掻きするのを自制できない。
迷路というか隘路に嵌りこんで、身動きの取れない中でただあがいてる。
東京でも一人なら富山でも独りぼっちです。
女房も子供もないので、暴走を留めるものは何も誰もないし。
ここまで来ると、ペダンチックだろうが何だろうが、身の程知らずな遊びを楽しみます。
投稿: やいっち | 2013/06/04 20:48