ブランショから狼へ…でもチェーンソー!
富山には珍しい、ある意味異常をすら感じるほどの晴れの日が続いている。
畑などには毎日、水遣りの必要がある。
今のところ、過日降った雨水をポリバケツに溜めておいた水があるが、それもあと一度か二度で枯渇する。早く、雨が降って欲しい。
← サーシャ・ソコロフ 著『犬と狼のはざまで』(東海 晃久 訳 河出書房新社) (画像は、「犬と狼のはざまで サーシャ・ソコロフ,東海 晃久|河出書房新社」より)
ただ、晴れていると、外仕事ができる。
今日も、昨秋、思い切って幹の上のほう数メートルを伐採した(恐らくは)「ユリノキ」を再度、伐採した。
早くも小枝が伸び放題になり、葉っぱが生え放題。
ちょっと風が強く吹くと、隣家の庭へ飛び散っていく。
隣家は、葉っぱ一枚でも拾ってしまう、綺麗な庭作りをする。
少々の落ち葉など、平気な小生とは雲泥の差の神経の持ち主。
← フリオ・リャマサーレス/著『狼たちの月』(木村栄一/訳 ヴィレッジブックス)
昨秋のように文句を言われる前にと、今日、幹をさらに数メートル、伐採したのだ。
その際、チェーンソーを使った。
今年初め、杉の木の幹が縦に割れ、倒壊の恐れが高まった。
早々に断ち切らないといけない。
その際、専門家に伐採を頼むか、自分で作業するか、迷った。
ノコギリデは埒が明かないような巨木となっている。二階の屋根に届くような高さ。幹は両腕でも抱えるのは難しいほどの太さ。
とりあえず、チェーンソーを買ってきた。
我が家の屋根に倒れるならともかく、隣家も迫っているし、車道に倒れる可能性もある。
最終的には、専門家に依頼したので、チェーンソーの出番はなかった。
そのチェーンソーがようやく日の目を見る日が来たわけである。
脚立を立てて、その上でチェーンソーをヴィーンヴィーンと使ったのだが、太い幹があっという間に切れていく。
← ブレット・L.ウォ-カ-著『絶滅した日本のオオカミ ― その歴史と生態学』(浜健二訳 北海道大学出版会 (2009/12 出版)) (拙稿「『絶滅した日本のオオカミ』より」参照)
呆気ないほどの伐採作業だった。
機械の力はさすがに凄い!
あとは、剪定鋏で残りの細かな枝や、近くの椿やミカンの木などの枝葉も落とした。
庭の一角だけだけど、ちょっとすっきりした。
昨夜未明に、モーリス・ブランショ 著の『来るべき書物 』を読了した。
理解するというより、論調の流れに身を任すという読み方。
ついで、今日未明から、サーシャ・ソコロフ 著の『犬と狼のはざまで』を読み始めた。
本書は、恥ずかしながら、実は勘違い同然で入手した本。
というのも、小生は日本オオカミの復活…は無理としても、日本の原野の一部にオオカミを復活させたいという考えの持ち主。
関連の本も少しは読んできた。
なので、書店でめぼしい本を物色していて、その題名『犬と狼のはざまで』に、本能的に手を伸ばした。
← モーリス・ブランショ 著『来るべき書物 』(粟津 則雄 翻訳 ちくま学芸文庫) 今回、読み返してみて、ほんの一部でも、理解可能な評論のあったことに驚いた。
パラパラと捲ったら、何やらおかしな雰囲気を感じたが、老眼鏡を持参しておらず、小説らしいとは分かるのだが、まあ、犬やオオカミが出るんだろうな…程度の認識。
すると、訳者序文に、「この小説はその名の通り、夕闇に包まれて目の前にあるものが誰なのか判らなくなる「彼は誰」時に起こった出来事を発端として展開します」とある通り、犬と狼とが区別できないような日暮れ時のことを指すのだと、読み始めて初めて分かった次第。
オオカミが全く出てこないのか出てくるのかは、読んでみないと分からない。
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