浮ける脂の如く
国稚(わか)く浮ける脂の如くして、海月(くらげ)なす漂える時、葦牙(あしかひ) の如く萌え騰(あが)る物に因(よ)りて成りし 神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこちのかみ)、次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)。この二柱の神もみな独神と成りまし て、身を隠したまひき
(「口語訳 古事記 [完全版] 三浦佑之 著 文藝春秋」参照)
日本では、上陸する数の多寡はともかく、古来より台風を恐れ戦いてきたのだった(蒙古襲来の際に、神風が吹いたと、感謝することもあったようだけれど)。
台風以外にも、火山の噴火に怯え、地震にも幾度となく襲われ、惨禍を体験してきた。
太平洋という巨大な海を前に、背には日本海があり、北にも南にも海がある。海に浮かぶ木の葉のような島。決して磐石な岩塊、地盤の上にある島ではない。昔の人は、大陸をプレートとして意識はしなかったろうけど、地震で揺らぐような、あやふやなものだとは思わなかったろう。
中国において天の思想が発達しえるのも、あるいは地を自明の事実として大地として受け止めていられるのも、磐石なる大地という意識さえもしない現実があったからなのだろう。
翻って我が国はというと、前述したように、雨に山が崩壊し崖が崩れ川が決壊し、浜が大波に浚われ、民家が押し流され、地震で住む<大地>自体が揺らぎ、火山の噴火に慄いてきたのだった。
個々の災害に苦しむ国家や地域があっても、これら全てに年々歳々苦しめられてきた島国は、我が国だけなのだ。
昔の人もそうだったろうけど、こうした環境を意識しないで、文化も経済も生活もありえない。
遠い昔、朝鮮を通じて中国の悠久なる思想や制度が導入されたのだろうけど、また、宗教も砂漠の試練に耐えた戒律の厳しいものだったろうけれど、時の流れと共に、日本的な風土に馴致してきた。
やがては、花鳥風月の世界に至りつくしかなかったということか。
厳しい戒律、絶対的な論理、岩のように強固な家を論理を宗教を思想を標榜したところで、台風に襲われ、地震で根底から生活が覆され、火山で地元の家々が一気に飲み込まれ、あるいは火山灰に埋められていく様を幾度となく経験したら、論理も思想も宗教も、自然のあり方に対応したような柔軟で、融通無碍で、反面、曖昧模糊として実体の掴み所のない、そんな鵺(ぬえ)のような在り様になるしかないのだろう。
台風は困る。しかし、その風と雨が全てを押し流し、過去を水に流してくれた。火山は困る。でも、そこそこに活動してくれて、温泉が湧く分には、その恩恵に浴したい。地震は怖い。が、それが権力の絶対性の仮面を引き剥がし、権力には力が必要なのではなく、権威さえ、あればいい。地盤に相当する権力は、適宜、必要に応じて、とっかえひっかえすればいいものに過ぎない。たとえ、今は威張っていても、今だけのことだと嘯いていることができる。
風土。生煮えで中途半端な土壌。白黒をあっさり付けてしまいたいと思いつつも、結局は灰色決着で曖昧に流してく。そのほうが、自分たちにも都合がいい…。
変わるものと変わらざるものがある。が、変わるものもその都度入れ替わるし、変わらないものも、何が変わらないのかが、気が付いたら入れ替わっている。さも、自然な風に。
温泉国家・日本。誰もが、そこそこの気分で居られる(かの)ような幻想にドップリと浸かっている国。
それだからこそ、憤懣や情念が鬱屈した形で蓄積されている。簡単には情念の噴出を許さない土壌。その土壌にあって、不穏なる空気が限界に至らないわけではない。その時が来たら、手の平を返すように、様相が一変する。豹変するというわけだ。豹変するのは、何も君子の専売特許というわけではないのだろう。
そうした、憤懣がどのように噴出してしまうのか、予想はまるで付かない。
政府筋は景気が上向いていると喧伝している。大本営発表的な絵空事でないことを祈る。何処か、一部の人たちは景気がいいのだろう。カネが一部に集中しているように感じる。都会を走り回っていると、巨大なマンション・ビル群があちこちで建っている。いずれも、ターミナル的な箇所のようだ。
が、その分、地方の商店街は寂しい。寂れていく一方のように感じられたりする。
それを全国に拡大してみると、大都会(の一部)は賑やかなように見受けられるが、大部分の地方は置き去りにされている。山が見捨てられ、年老いた人々が、声もなく、孤軍奮闘している。若い人が煌びやかな世界に憧れて、都会へ吸い込まれるように地方から、山から消えていく。
山が森が川が浜が田が畑が里が、寂れていく。台風でお年寄りの被害が多かったとか。逃げ遅れたとか、なんとか。
しかし、カネが都会でのみ回り、地方を置き去りにし、その地方の山や森を淡々と守っているのがお年よりだったのだとしたら、荒廃した山村で、ちょっとした災害に見舞われたとき、犠牲になるのはお年寄りだというのは、理の当然なのではないか。
環境が大事だという。環境とは何か。排気ガスなどを減らして空気を綺麗にすること、ゴミを捨てないでちゃんと処理し、リサイクルに回すこと、省エネの車や電化製品を使うこと、環境に優しい物品を使うようにすること、などなど、いろいろあるに違いない。
でも、一番の環境対策とは、地元を大切にすること、住む地域を守ること、今もって日本の国土の3分の2は山や森なのだという現実を直視すること。お年寄りだけじゃなく、若い人も山や森に関心を持ってもらうよう、経済の仕組みを変えるというより、国土の性格を理解し直すことなのではなかろうか。
なんだか、話が仰々しくなってしまった。炭焼き小屋が懐かしいなと思ったりするだけなのだが。
(「十日余の月」(2004/10/23)より一部抜粋。本文中、「政府筋は景気が上向いていると喧伝している」などと書いている。断っておくが、本稿は2004年の作。狼少年の話は繰り返されるってことか。)
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