復讐するは作者にあり ? !
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今週末には、シャーロット・ブロンテ/著『ジェーン・エア 』 (大久保康雄/訳 新潮文庫)を上下巻共に読了しちゃいそうである。
40年以上、間をおいての再読。
→ ジョン・コンスタブル『ハムステッド・ヒースの木立、日没』(ホームページ:「静岡県立美術館」) 拙稿「絵画は自然科学的実践 ? ! …コンスタブル(前篇)」参照。
小生にとっては、大事な大事な作品だけに、敢えて再読は避けてきた。
読んで改めて傑作であることを確認できたが、読み終えると(まだ百頁ほど残っているが)、長年の懸案をこなしてしまったようで、妙な空白感を感じてしまう。
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国稚(わか)く浮ける脂の如くして、海月(くらげ)なす漂える時、葦牙(あしかひ) の如く萌え騰(あが)る物に因(よ)りて成りし 神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこちのかみ)、次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)。この二柱の神もみな独神と成りまし て、身を隠したまひき
(「口語訳 古事記 [完全版] 三浦佑之 著 文藝春秋」参照)
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昨日は、月に二度の連休を巡ってあれこれ書いた。
たまの連休なので、普段はできないような作業や用事を果たす、云々と。
無論、読書のほうも細々と進めている。
← グウェン・ラヴェラ【著】『ダ-ウィン家の人々 - ケンブリッジの思い出』(山内 玲子【訳】 岩波現代文庫) 「チャールズ・ダーウィンの孫娘による本書は、ダーウィン家の群像とヴィクトリア朝上流階級の人間模様をウィットとユーモアあふれる表現で生き生きと描き出す。百数十年前のケンブリッジの街並みと、多くの科学者を育んだダーウィン家の人々が蘇ってくる。著者自身によるペン画の挿絵も魅力的であり、古き良き時代の英国を描き出す至上の回想記」。
連休初日の夜は、 シャーロット・ブロンテ著の『ジェーン・エア〔上〕』を朝方までに読了し、一旦、朝刊を読んでから、『ジェーン・エア〔下〕』へ突入。
やはり面白いし、イギリス文学特有の(ジョージ・エリオットに繋がるような)心理描写や性格描写の細かさが際立つ。
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昨日、「ユネスコの世界遺産委員会は、22日、日本の富士山を、静岡県の三保松原を含めた形で世界文化遺産として登録することを決めました」(富士山が世界遺産に登録決定 NHKニュース)といった朗報が流れた。
→ 富士山 (富士市より) (画像は、「富士山 - Wikipedia」より)
富士山の天辺に一度は登ったことのある小生としても、喜ばしい。
が、悲しくも我が富山からは、富士山をどうやっても眺めることのできない小生、せめて、その匂いか雰囲気だけでも、ということで、「ふじ(さん)」絡みの話題を扱う!
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[富山も梅雨入り。せっかくなので(?)、雨絡みのやや妄想気味の掌編を再掲する。あくまで、創作である。]
あれは夢の中でしか見ることの出来ない黒い雨の降る夜のことだった。
鮮烈なほどの蒼い光が俺の目を刺し貫いた。貫通した光は、瞬時に消え去ったが、俺の後ろの分厚い壁に怪しい人影を残していた。
→ 「黒い雨」 (デジタルニューマスター版 [DVD]) 田中好子 (出演), 北村和夫 (出演), 今村昌平 (脚本) (画像は、「NHKスペシャル 「黒い雨~活かされなかった被爆者調査~」!」より)
その日から俺は影の世界に生きてきた。
俺にはもう、この世とやらとは縁も縁(ゆかり)もない人間に成り果てたのだ。
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「ちくま文学の森文庫」シリーズの本を8冊ほど読んできた。
今、手にし始めたのは、手持ちの本の最後の一冊。
どうも、テーマである「心洗われる話」ってのが苦手で、とうとう最後になってしまった。
← 「ホタルブクロ」 (「ホタルブクロのこと」参照。
冒頭近くの、芥川の『蜜柑』など、たとえば、太宰の数多くの作品の中の『走れメロス』のような位置付けとなるような作品。
病的に繊細であり知性の塊のような芥川がふと市井の好日的な「心温まる」光景を目にし、比較的凝らずにふっと描いたような作品。
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この数日、雨模様である。火曜日にはようやく北陸(富山)も遅い梅雨入りとなった。
火曜日の夜半から水曜日の午後までは、土砂降りの雨。
カンカンに乾いていた畑や庭が潤う…どころか、溺れそうなどになった。
→ 紫陽花や雨の音さえやわらかに (や) (「紫陽花や雨の音さえやわらかに」より)
雨に似合う花・紫陽花も、たっぷりの雨に息を吹き返したように瑞々しくなっていた。
そう、梅雨というと紫陽花と、安直な連想ばかりが働く小生、梅雨の季節ともなると、紫陽花絡みの小文を毎年のように書いている。
今日は、紫陽花関連拙稿からのダイジェスト特集と洒落て(?)みる。
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ちょっとした偶然というか成行きで、過日より主に車中で読み進めていた、『ちくま文学の森 5 思いがけない話』の最後の作品、「雪たたき」(幸田露伴)と、『ちくま文学の森 1 美しい恋の物語』の最後の作品、「なよたけ」(加藤通夫) とを共に、同じ夜に読むこととなった。
← シャーロット・ブロンテ/著『ジェーン・エア〔上〕』 (大久保康雄/訳 新潮文庫) 「孤児として、伯母に育てられたジェーンは、虐待され、ローウッド寄宿学校にいれられる。そこで八年を過した後、広告を出し家庭教師として赴いた先に居たのは子供と家政婦だけだった。散歩の途中助けた人物こそ、屋敷の主人ロチェスターであると知ったジェーンは、彼と名門の貴婦人とのロマンスを聞き、胸が騒ぐ。孤独と戦いながらも不屈の精神で生きぬく女性を描いた青春文学」。
日曜日の営業があまりに暇で、呆れ果てて、出勤時間が自由な日であったこともあり、半日で切り上げて帰宅。
普段は、早くても夜半を大きく回って二時なのが、買い物を済ませても夜の十時前に帰宅できた。
夜の長さに驚いた。
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今日は、久々の雨天である。
しとしと降る雨で、庭も畑も潤っている。女性の肌もしっとりしていることだろう。
そんなそぼ降る雨の中、外仕事も叶わず、フィリップ・カー=ゴム 著の『「裸」の文化史』を一気に読了した。
ハダカへの好奇心で選んだ本だが、案外と考えさせられることも多かった。
→ 絵画による裸婦の表現例 (画像は、「ヌード - Wikipedia」より)
「ヌード」なる言葉は、「日本語においては「ヌード写真」「ヌードシーン」のように、彫刻・絵画・写真・映画といった創作物における裸に対して使われることが多い」
一方、「裸(Nudity より Nakedness か)」は、「人間が衣服をまとわない状態を指す」。あるいは、「「生まれたままの姿」との表現がなされる場合もある」。
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薔薇は外見だけではなく、香りあっての薔薇であろう。人によって好き好きがあるのだろうが、バスローブなどに薔薇の香などがほんのり含ませてあったりしたら、漂い来る香りだけで悩殺されてしまう。質のいい香水だと(めったにないけれど)、擦れ違った女性の余韻がずっと尾を引いてしまうこともあったりして。
それどころか、真に上質の香水だと、十年、二十年の歳月を経ても忘れられなかったりする。
← 日照りのような天気だというのに、紫陽花が咲き始めて…。せめて、水遣りだけは欠かさずに。
人間とは比較にならないほど嗅覚の鋭い犬は、この世を一体、どういうふうに見ている(感じている、嗅ぎ取っている)のだろう。
犬の記憶力がいいのかどうか、分からない。あるいは劣るのかもしれない。が、少なくとも匂いについては、一度嗅いだ匂いのことはずっと忘れないのではなかろうか。会った人、犬、猫、食べ物などはクンクン嗅いで、嗅覚の中枢にしっかり収められるのではなかろうか。
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徒然なるままに、車中で『ちくま文学の森 5 思いがけない話』(安野 光雅編 ちくま文庫)を読んでいた。
その日は、芥川竜之介の「魔術」、そして江戸川乱歩の「押絵と旅する男」を読んだ。
← 数日前まで満開だったバラの花が凋んでしまったとがっかりしていたら、別の枝からまた薔薇の花が咲き始めていた。
芥川の「魔術」も久しぶりだったが、読んでいるうちに、昔、読んだことをすぐに思い出した。オチも、いかにも頭脳派、知性派の芥川らしいもの。
つづいて読んだ、江戸川乱歩の「押絵と旅する男」も、やや久しぶりで、今度で三回目、恐らく十年にもならない前に二度目、そして今回である。
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過日、食事しつつ見ていた「お宝鑑定団」で紹介された「橘 小夢」の画に興味津々。
小生には初耳の人物。
← 橘 小夢作「水魔」 「三省堂で開催された第一回版画作品個人展覧会に出品した後、内閣省から発禁処分を受けた」とか。 (画像は、「お宝鑑定団 橘 小夢 - 脳内写生:ご異見版」とか)
番組で紹介された作品は、橘小夢 (たちばなさゆめ)の初期の作品とかで、後年のいかにもというような妖艶さはない。
しかし、目元の表現の妖しさ、行燈の表現の独特な幽玄は、彼の資質を示している。
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日記にはくどくどと幾度か書いてきたが、昨秋から、庭や畑などの(耕作などに支障のない)エリアに、防草シートやマット、ビニールシート、テーブルカバー、板切れなどを敷きまくってきた。
要は、雑草対策である。
← フィリップ・カー=ゴム 著『「裸」の文化史』 (中島 由華訳 河出書房新社) 著者は、ケルトの宗教であるドルイド教研究の第一人者だとか。裸への好奇心で手を出した。 (画像は、「「裸」の文化史 フィリップ・カー=ゴム,中島 由華|河出書房新社」より)
その効果か、例年なら四月からは、在宅の日はほぼ毎日(つまり、雨天の日以外)、草むしりが日課だったのだ、今年は、水遣りのついでに、目に付いた個所を毟り取るという軽度な作業に終始している。
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東京は、八重洲側も丸の内側もどんどん大規模開発されている。
東京在住時代は、仕事柄、その界隈もどれほど駆けずり回ったことか。
在住の頃も、新丸ビルができるなど、変わりつつあったが、その後の数年は、隔世の感を齎すような変化ぶりのようだ。そして、これからは、なおのこと!
→ 新東京中央郵便局あるいは、背後のガラスっぽい高層のJPタワー (画像は、「東京中央郵便局 - Wikipedia」より)
ところで、東京駅の丸の内側で思うのは、やがては皇居へ至るということもさることながら、駅の周辺に限ると、丸ビルであり、何といっても、新装なった赤レンガの東京駅(駅舎)だろう。
あの界隈の地理に詳しい人なら、旧東京中央郵便局の巨大な建物(その割に低層だったが)が大きな一角を占めていることを知っているだろう。
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富山には珍しい、ある意味異常をすら感じるほどの晴れの日が続いている。
畑などには毎日、水遣りの必要がある。
今のところ、過日降った雨水をポリバケツに溜めておいた水があるが、それもあと一度か二度で枯渇する。早く、雨が降って欲しい。
← サーシャ・ソコロフ 著『犬と狼のはざまで』(東海 晃久 訳 河出書房新社) (画像は、「犬と狼のはざまで サーシャ・ソコロフ,東海 晃久|河出書房新社」より)
ただ、晴れていると、外仕事ができる。
今日も、昨秋、思い切って幹の上のほう数メートルを伐採した(恐らくは)「ユリノキ」を再度、伐採した。
早くも小枝が伸び放題になり、葉っぱが生え放題。
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先月辺りから、週に一度、多くて二度ほどだが、プール通いを始めている。
この程度じゃ、プール通いというのもおこがましいが、まあ、数年ぶりのプール行きなので、自分を叱咤激励する意味も込めて、(自分の中では)プール通いと称しておく。
自分の中ではと、やや自信なさげな表現になったが、実際には、先月の終りから、(会社が派遣の)栄養士さんの管理や指導も始まっていて、月に二度ほど、経過報告が課せられている。
その際には、週に一度はプールに通っていますよと、堂々と記入したいわけである。
実は昨年も、同じ時期、三か月間ほど、栄養士さんの指導を受けていた。
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青い空を見る。青い海を見る。その狭間を海鳥たちが舞い飛ぶ。遠くには幽かに不二なる山の優美な姿も望める。
空には白い雲。海辺には寄せては返す波。浜辺に沿って緑なす松の並木が何処までも続いている。そして頬を撫ぜる潮風と、その香り。
→ 蒼穹も翳る頃 (画像は、「島崎藤村とラスキンと雲と…少し賢治」より)
絵のような美しさ。それとも写真のように木目細かな像。心地よさ。
なんだか、倒錯したような表現だ。眼前に広がる光景を愛でていれば、それで十分じゃないか。何を殊更に人の手で描き叙する必要があろうか。
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モーリス・ブランショ 著の『来るべき書物 』などを読んでいるせいか、妙に言葉それとも言語なるツールのことが気になる。
遠い昔、同じくブランショの『文學空間』を読んだ際も、ブランショのパセティックというのではないが、(自分にはやや)高踏的な語調に振り回されたものだった。
フランス(語)系の文學や哲学の著書には相性が悪い…と云えば、ブランショの世界に馴染めない理由としては、あまりに言い訳としても程度が悪い。
原語がフランス語とはいえ、翻訳で読んでいるわけで、その本来の言語表現に多少でも触れているわけではない。
学生時代、哲学の絡みでラテン語を学んだことがある。
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我が家の薔薇がいよいよ開花の最盛期を迎えつつある。
いかにも、6月の誕生花らしい。
「季節の花 300 薔薇(ばら)」によると、薔薇には、「春(5~6月)と秋(10、11月)に咲くものが多いようだ」とか。
我が家の薔薇が秋に開花するのは観たことがないので、春に咲く品種の薔薇のようだ。
ちなみに、「夏は暑いのでひと休み」とか。
ということは、同じ薔薇でも、夏休みはあっても、春にも秋にも咲くということなのか?
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この頃よく夢をよく見る。
明日への夢ではなく、過去の亡霊が化けて出てきたような夢。
夢というより夢の骸と云うべきか。
← 「相馬の古内裏」(歌川国芳画)。滝夜刃(滝夜叉)の操る巨大な骸骨と戦う大宅太郎光圀を描く。 (画像は、「骸骨 - Wikipedia」より)
暗幕の陰で骸骨が躍っている。
裸だからか、滑稽で惨めな姿。淋し過ぎる。隠しようがない。せめて浴衣でも羽織って、風流を気取ればいいのに、輝く骨身を自慢したいのか、コツコツ音を鳴らせながら、誰も見ていないことをいいことに、踊り狂っている。
狂っているだけなのかもしれない。
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