ルソーの「告白」の頃のこと
大抵は、掃除。
なので、倉庫は、長期在庫品もあって、入出庫も多いし、埃に塗れやすいのだが、掃除が行き届き、倉庫の薄暗いというイメージとは裏腹に、案外と綺麗なのである。
その倉庫に、或る日、彼女がやってきた。
その日は、アルバイトはオレ一人だった。
本社から何か問い合わせがあり、メモ用紙を手に、倉庫へ(恐らくは)在庫確認に来たのだろう。
普段なら、倉庫に居る自分に問い合わせれば、それで済むはず。
事務室と倉庫とは、直通電話で繋がっているのだ。
敢えて彼女がやってきたのは、自分に会うために…なんてはずもなく、きっと、事務室も暇で、気分転換もあり、窮屈な雰囲気から逃れたかったのだろうと思う。
倉庫のドアが開いた瞬間、オレはドキッとした。
倉庫でのアルバイトの為すべき仕事がないってことくらいは、彼女も察しが付くはず。
それでも、小心者のオレは、慌ててしまって、倉庫の数多い棚の陰に隠れて、彼女の様子を伺ってしまった。
自分の怠慢ぶりを見られたくないってこともあったが、それ以上に、好きな彼女をじっくり眺めたかったのだ。
倉庫には、事務所棟との境目にドアがあるが、入口の数畳ほどのフロアーを経て、さらにまた在庫品のための、棚が一杯の倉庫との境目にもドアがある。
つまり、最初のドアが開いた瞬間には、気配がするだけで、倉庫の奥に潜んでいる(?)オレにはまだ、二つ目のドアが開かれて初めてこちらの姿が見える可能性がある、という余裕がある。
だから、隠れる余裕もあったというわけである。
でも、彼女は、オレの立場を悪くするようなことはしないに違いないという自信もあった(残念ながら、別に彼女がオレにホの字だというわけではない)。
当時は聖子ちゃんカットが大流行りで、彼女もその例にもれず聖子ちゃんカットの髪型をしていた。
スリムな体型の彼女。独特な、上ずったような声が、好きな小生にはたまらない。
女子社員らしい事務服がまた似合う。
円らな目。ロシア人かと思えるような、透き通った白い肌。忙しいと、頬が上気して火照る、その様がたまらない。
倉庫での調べが間もなく終わり、入口フロアーへ移り、そこにある電話を手にして、何処かへ何かを伝えている。
オレは、ドアを細めにあけて、彼女の電話する姿や横顔を眺めていた。
綺麗だ。
好きな彼女が数メートル先に居て、何事かを真剣な表情で相手に伝えている。
やがて俺は、誘惑に負けてしまった。
別に彼女が誘ったわけではない。
オレは、彼女を間近で眺めたいという欲求に負けたのである。
当時のオレは、25歳くらいか。
彼女は、オレより二つか三つ年下。
年齢的にちょうどいい ? !
オレは一歩一歩、彼女のほうへ近づいていった。
電話が意外と長引いている。
何か伝えればそれで終わり、とはいかなかったようだ。
それが間違いの元だったのかもしれない。
気が付くと、オレは彼女のすぐ背後にいた。
やや斜め後ろ。オレの身長は172センチ、彼女は163センチほど。
事務職だが、現場仕事の必要もあるということで、ハイヒールは履いていない。
なので、ほとんど慎重の差で、彼女をほんの少し、見下ろすような恰好になっている。
ああ、あそこで我慢すればよかったのに、オレは誘惑に……ではない、欲求に負けて、彼女の顔を覗き込んでしまった。
聖子ちゃんカットの髪が彼女の白い額や頬に少し垂れかかっている。
時折、メモを覗き込んでは、何かの事実を再確認し、電話の相手に応対している。
何か揉めているのか、オレのことなど眼中にないのか、彼女を間近で覗き込むオレを気にするそぶりはまるで見せない。
それほどに、仕事に、話の内容に気を奪われていたのか。
だが、オレは、そうは考えたくはなかった。
オレの接近を、オレとの接触を求めている。
オレとの待望の時を少しでも長く持たせたいと考えているのだ…オレはそう思いたかった。
興奮しているのか、透き通るほどに白い彼女の頬が火照って、普段以上にオレをそそる。
彼女の声がオレの耳元に聞こえている。
彼女の髪の香りがオレの華を擽る。
彼女の唇。
そう、オレは彼女の唇が好きなのだ。
分厚いわけではないのに、ぷっくりとしていて、口が触れ合ったら、きっとその感触にメロメロになるに違いない。
ヌーディーなほどに淡い、ラメなど入っていないのに、煌めいているようなパールベージュの口紅ほど彼女に似合うカラーはないだろう。
あの夢にも見た唇が今、オレの目の前で合わさったり離れたりしている!
何もかもが近い!
上気する彼女の頬は、仕事のせい? それともオレのせい? オレへの怒り? オレへの想い?
今こそ、その真実が日の下に明らかになろうとしている。
が、いきなりガチャッという受話器の降ろされた音。
彼女はオレなどそばに居なかったかのように、素知らぬ顔で、けれど、頬は火照ったままに、足早にその場を立ち去って行った。
やがて…オレも、何事もなかったかのように、倉庫の奥、棚の陰の椅子に以前のように腰掛け、すりガラス越しの陽光を受けながら、ルソーの「告白」を読み続けた。
読み終えた頃、例のあの事件(事故)が起きたのだった。
(以上は、思い出風な短編です。当時、小生はルソーの「エミール」を読んでいたのでした。)
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コメント
恋する相手の気持ちはどうなっているのか?
知りたいところですよね。
ひょっとして自分に向いているのではと期待しながら。
一喜一憂を繰り返している間が、一番楽しいのかも。
恋のかけひきを楽しみながら、ドキドキワクワクして過ごしたいですね。
先日、還暦を過ぎた友人に会ったら、最近ではワクワクすることが皆無だと嘆いていました。
淋しいことです。
投稿: 砂希 | 2013/05/29 20:44
砂希さん コメント、ありがとう!
恋する切ない気持ち。
悲しいことに、東京を離れてからは、ちょっと縁遠くなってしまって。
ブログでは、創作も結構、書いていたのに、帰郷してからはほとんど書いていない。
東京在住時代、熱心にブログを続けていたのも、片想いとはいえ、好きな人がいたからだと、今さらながら、つくづく感じます。
一方、恋に真剣になると、ホントに胸が痛む、辛いものです。
年を取ると、その重さが分かるだけに、億劫になったり尻込みしたり。
富山で誰か(片想いでいいから)好きな人を見つけたいと思うのですが、すっかり引きこもり状態です。
畑とか庭仕事なんて、口実なのかも。
ところで、 砂希さんは、恋にときめいていますか?
投稿: やいっち | 2013/05/29 21:46
わくわくするような気持ちになることはないけれど、発狂するかと思うようなパニックは割とよくある。ドキドキには違いがない…!?
投稿: 大治郎 | 2013/05/30 15:45
大治郎さん
わくわくとパニック感は、ドキドキ感が共通する。
うむ。
若い頃のときめき感と、病がちの体の心臓のバクバク感とは、雲泥の差がありますね。
なんとか、ときめき感を覚えたいものです。
投稿: やいっち | 2013/05/31 22:11