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2013/05/16

ネギ坊主が立派なわけは…

 小生の日記には、家事として庭仕事のほかに、しばしば畑仕事が話題に上る。
 それだけだと、さぞかし、外仕事に熱心なのだろう、感心な奴だ、という印象を持たれるやもしれない。
 トンデモナイ間違いで、そういった印象を持たれたなら、人に良く思われたいという小生の性癖のせいかもしれない。

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← ちょっと見ると、綿帽子を被ったタンポポのようにも見える……なんてのは無理があるか。

 しかし、日記には、家の掃除も嫌いなら、外仕事も嫌いだと折々念を押している。
 畑仕事をするのも、親が遺してくれた唯一の財産だからである。
 畑をとりあえずは維持することが親不孝だった小生の唯一の孝行と心得ているのである…などと書くと、またもや外聞を良くしようという魂胆が露骨なような。

 ただ、我ながら健気だなと思うのは、小生、野菜嫌いなのだということ。
 可能なら、肉類、刺身などの魚類だけをオカズに食事したいくらいだ。
 なのに、畑を維持している…なんて健気な奴なんだろう…。

 その実、不思議なのは、八宝菜が好きなこと。店に調理された八宝菜があると、ともすると二つ、買ってしまう。
 夕食用と、翌朝の食事用である。
 仙台で下宿暮らしを始めた頃の中華丼を巡る強烈な体験が浮かんでくる。

 朝夕の二食賄い付きの下宿。
 四人居た下宿人は、大概、朝夕を共にする。
 家主さんも(あるいはその家族とも)一緒の食事。
 テレビがなかったので、夕食後、大家さんの茶の間でテレビを見、お茶やお菓子で団欒のひと時を持つのが楽しみだった。
 但し、察せられるように、食事は小生には苦行以外の何物でもなかった。

 大家さん手作りの食事は、栄養バランスも考えられた、心尽くしのもの。
 当然ながら、肉や魚もだが、野菜もふんだんに食材として使われている。
 まあ、野菜がサラダ風に添えられているなら我慢もできる。
 しかし、中華丼となると!
 玉ねぎやらニンジンやらタケノコやら嫌いな野菜類がご飯の上にどっさりと載っかっている!
 しかも、吾輩の天敵であるシイタケまでもが!
 吾輩が辛うじて口にできるのは、ご飯はともかくとして、白菜とウズラの玉子くらいのもの。
 ああ、添えてあった味噌汁も、呑める。

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→ 苗を植えて5年目。一度たりとも収穫したことがない… 

 吾輩の性分に、シャイで負けず嫌い、しかも見栄っ張りというのある。
 家主さんのせっかくの手料理、他の下宿生の手前もあり、食べられないとは毛頭、云えない。
 好きな具材だけ食べて、あとは残すという、自宅でなら可能だった手法など論外である。
 
 小生はどうしたか。
 中華丼をそれこそ、呑みこむようにして<食べた>!
 一見すると、美味いので、掻き込むようにして食べたようにも見えたかもしれないが、実は、口の中で野菜類を噛むのが嫌という一心で、食感も味わいも一切、感じなくていいように、ただただ呑み込んだのだ。
 丼から胃へ、口の中も喉も食道さえも、ただのパイプと心得、味噌汁を潤滑油にして一気呵成に呑み込んだのだ。
 なんなって、シイタケが親の仇ほどに嫌い。
 といって、食べ残しは叶わないとすれば、呑みこむ以外に方法はありえなかったわけである。
 
 よって朝夕の食事の時間は、難行苦行続きの暗黒の世界を、ひたすら通過するのを願うばかりだった。
<食後>、茶の間でお茶を喫する時間が来て初めて、安堵の胸を撫で下ろすのだった。

 まことに、大家さんには申し訳ないとしか言いようがない。
 内容豊かな食事のメニューに、感謝の念に絶えないのだけれど。

 ただ、二年間、下宿生活を送って、共同生活の楽しみを覚えたこと、そして何より、野菜嫌いが克服できたことは大きい。まさに、感謝、感謝である。
 但し、野菜嫌いが治ったわけではない。
 小生の野菜嫌いは、病膏肓の域に達しており、嫌いが好きに転じることは今生、ありえない(今も)!
 克服と言い条、食べられるようになっただけである。

 それどころか、今では、中華丼(八宝菜)は、大好きな料理の一つになっている。
 野菜嫌いなのに、八宝菜やチンジャオロース、ゴーヤチャンプルが好きだっていうのは、なぜなんだろう。
 自分でも訳が分からない。
 キュウリやナスの浅漬けは、欠かせないメニューになっているし。

(余談だが、シイタケ、マツタケは、今も天敵のままである。どんなに細かく切り刻んであっても、口にした途端、吐き出す。味もだが、食感に吐き気がするのだ。ウソだと思うなら、マツタケをザルにでも入れて、送ってみてほしい。小生、見向きもしない!)

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← 今年もムラサキツユクサが庭のあちこちに。我が家はツユクサの宿と化す。

 そんなわけで、(文脈がかなり乱れているが)、畑で野菜作りをしているものの、張り合いがまるでない。
 実がなっても、花が咲いたと同じで、それなりに感激はするものの、食べられる! 収穫できる! という楽しみが感じられない。

 収穫の大半は、人の手に渡っていく。
 自分では、浅漬けの分、手元に残れば十分なのだ。
 
 下手すると、収穫もされないで朽ち果てていく野菜類が無残な姿を晒すことがしばしばである。
 昨年も、キャベツや白菜は、秋になって、ついに腐り果てたし、タマネギなど、一度も収穫したことがない。

 苗を植えて以来、畑の一角で毎年、勝手に育ち、今の時期、ネギ坊主となる。
 その立派なネギ坊主こそが、小生の野菜嫌いのシンボルなのだ。

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