繰り返し見る夢
夢に同じような場面が、幾度となく出てくることがある。
夢の筋は違っているようなのだが、最後に出てくる光景は、決まって、特定の場面、情景というような。
その一つに、座椅子のようなものに体を埋め、その椅子に乗っかったまま、そこらじゅうを移動して回るという夢がある。
← 庭の一角に謎の植物が群生している。
座椅子に腰掛けている自分は、地上数十センチのところで宙に浮いている。
腰を捻ると、カーブしていく。
体をスイングし、胸を逸らすと、体は座椅子ごと宙にせりあがり、地上の障害物を乗り越える。
自在に舞っているようでもあるが、自分が宙に浮きたいと思っているのか、定かではない。
(「間に合わない」参照。)
それとは別に、恐らくは東京在住時代の一時期利用していた、地下鉄に関する夢もしばしば見る。
何処かの駅のホームに立っている。
渋谷だろうか、新宿だろうか。西武線のようでもあり、京王線のようでもある。井の頭線かもしれない。
いずれにしろ、始発駅であり、ターミナル駅。
幾つもの路線が分枝していく、その切り替え、乗り換えポイントでもある。
東京の繁華な一角。数知れない人たちの波。自分もその一人のはずなのだが、実際、急ぎ足で行く人々の中に居るのは分かるのだが、それでいて、自分はここから別れていく二つの路線のプラットホームの狭間で宙に浮いているような奇妙な感覚を持て余している。
目的地へ行くには、これらの路線を超え、もっと他のプラットへ向かわないといけない。
迷路で迷っている自分。
間に合わない…
これは、何度となく見る夢の一場面である。
しかも、いつも尻切れトンボで終わってしまう。
結末もなければ、展開もない。
立ち往生して終わってしまうのだ。
→ これも不明な植物。黄色の小花が愛らしいのだが…。(「母子草 (ははこぐさ)」では、という指摘をいただきました(5月20日)。)
何処から来たのか、なんとなく、夢の中ではそれなりの脈絡があるような気がする。
それなのに、起承転結の起承までは目覚めた瞬間、きれいさっぱり忘れてしまう。
掻き消されるようでもある。
とにかく、恐らくは、調布か吉祥寺へ向かわないといけない…という目的地らしいものだけは、夢の末期でははっきりしている。
ただ、自分がおよそ関係のない路線のホームを目の前に、茫然と立ち尽くしているのだ。
何か、思い出以上に重い何かの苦い体験が潜んでいるのだろう。
重すぎて、思い出せないほどの何か。
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