ツツジの季節が始まる
気温の起伏の激しい今年。
昨日の温暖な日和が、今日は一転して冷たい雨に。
庭では、タンポポが綿毛を飛ばし尽くし、水仙や椿の開花は終わりを告げつつあるが、代わってジャーマンアイリスやムラサキツユクサ、苧環(おだまき)などが咲き始めている。
一方、低温続きに辟易してか、植えたばかりの野菜の苗や、先月早々だったかに植えた芝桜やエニシダは、育ちきれないでいる。
そんな中、庭を見て回ると、ツツジがポツポツ咲き始めてきた。
我が家の樹木や草花は、地味が貧しいのか、育ちが悪く、ツツジにしても、街中で見かけるようには、見事に開花してくれない。
それでも、ツツジの季節は来てくれたことが嬉しい。
以下、ツツジ絡みの小文を紹介。
「躑躅(つつじ)と髑髏と:」:
(略)髑髏(どくろ)という漢字と何処か似ているような印象を持っていたものだった。
(略)表記の上で躑躅と髑髏を並べたなら、何処が似ているんだ、お前の目は節穴か、ということになるのだが、一旦、本を手放し、何処か河原か田圃の畦道でも歩いている最中に、ツツジやどくろの文字を思い浮かべようとすると、両者の漢字が交じり合って、躑躅の中に髑髏の影が忍び寄り、髑髏の目玉から躑躅の花が、それこそあざとく咲き出でるような、そんなイメージが付き纏って離れない、そんな自分だったのである。
人間や動物等は、全身が毛に蔽われているか衣服に守られているか、そうでなくとも、耐えがたければ、日陰を求めて移動することもできる。
が、植物は、ましてグリーンベルトとして使われている街路樹となると、とことん、太陽からの放射線をまともに浴びつづける。ともすると浴びすぎると致命的ともなりかねない紫外線が植物の身体を貫き通していく。身体を成す無数の細胞が光の洪水、過剰なまでの放射線の照射に悲鳴を上げているのではないかと思われたりする。
→ ツツジの花の芯に頭を突っ込んで、蜜を吸っているミツバチ。 (画像は、「生ける花、ただ朽ちていく花?」より)
「ツツジの宇宙」
踏みつけにしようと思えば踏めるから、動物の放縦に逃げることも出来ない、だから、植物は弱い…。毎年のように植物は我々の目の前で、芽吹き、咲き、萌え、絢爛たる光景を現出し、やがて枯れていったり、萎んで目立たなくなったりする。命の儚さを勝手に思い入れしてみたりする…。
けれど、植物のことをいろいろ調べると、我々の感傷や思い入れを他所に、結構、したたかで逞しい生命力を持っているということをつくづくと感じさせられる。
たとえ、踏まれ萎み窶れ腐り土に返っても、それは束の間の急速の時に過ぎず、やがては次の世代の植物達の滋養となって吸収され取り込まれ形となり、つまりは蘇る。死と生との循環を日々、身を以って、われわれに教えてくれているかのようだ。

← 上掲の画像を拡大してみた。ミツバチ君、無我夢中!
「病葉(わくらば)…邂逅」:
散る光景が潔くて美しいなどと愛でておき、花(桜)を愛しているといいながら、実際には、散り果てた花びらは路上に舞い、踏みつけにされ、埃に塗れ、腐っていくのをうざったく邪魔臭いモノと煩がられてしまうだけ。
散ってしまった花をせめて心の中で手向けの思いを寄せてみる…そんな同好の士がいたらな、と思う。葉桜を愛でるのもいいのだけど。
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