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2013/04/03

「岐岨路」から「木曽路」へ?

 寒暖の変化がやたらと激しいし、その変化も急な日々が続く。
 昨日は、17度ほどだったのが、今日は昨日の最低気温が最高気温だったりする。
 先のことは分からないが、今冬(の特に終り頃)以降は、この気温の変化の上下の頻繁さで銘記されるやもしれない。

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← 冬、圧雪にすっかり枯れ果てていた「苧環 (おだまき) 」がまた、瑞々しく育ってきていた。

 さて、安岡章太郎/〔著〕『流離譚 上』(講談社文芸文庫)を読了し(但し、小生は新潮社版で読んでいる)、早速、『流離譚 下』に手を出している。
 下巻になると、いよいよ西郷隆盛や坂本竜馬、板垣退助、後藤象二郎などなど有名な人物が登場してくる。

 安岡章太郎のご先祖様は、こういった人物と多少なりとも面識があったなんて、ミーハーの小生はそれだけでテンションが上がる。
 島崎藤村の『夜明け前』は小説として際立つものだったが、本書も幕末から明治維新を扱って、読まずにはいられない書だと感じる。
 
 ところで、余談めいた話にしかならないが、『流離譚 下』を読んでいたら、気になる表記に遭遇した。
 それは、岐岨路(きそじ)である。云うまでもなく、木曽路のことである。
 これは、いよいよ薩長や土佐藩の討幕のための(大垣、木曽路、信州上諏訪などを通っての)東征がなされた際に、安岡の先祖の一人である覚之助が先鋒隊の一人だった。
 その覚之助が親元へ送った手紙の中に岐岨路(きそじ)が出てくる。

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→ アオサギだろうか、五分咲きの桜など眼中にないのか、人目も気にせず、松川の土手でじっと川面を眺めていた。
 
 この表記は、木曽路の昔(本来)の書き方だったのか、それとも、江戸や明治の文書にはよくある、当て字なのか。
 漱石の小説を読んでも、当て字めいた表記にしばしば遭遇する。
 名前などは特に、当てずっぽうではないかというような表記が珍しくない。
 地名も人名も、耳で聞くことが多く、いざ、手紙や日記などに書きつける際、当てずっぽうで書いているのだろうか。
 何かで調べたりせず、特に正しい表記があるなどとは頓着せずに書くのが普通なのだろうか。
 公式文書なら留意しても、普段は正しいかどうかなどには格別留意したりしないのだろうか。

 木曽路(きそじ)は、中山道の一部または異称であり、木曽街道とも表記(呼称)する。
「木曽街道(きそかいどう)とは、京と江戸を美濃国および信濃国を経て結んでいた山道の俗称である。古代から中世の東山道、江戸時代の中山道のこと」で、「中山道のうち、美濃国と信濃国の境界部に当たる木曽地方の一部区間を指した」という(「木曽街道 - Wikipedia」参照)。

 岐岨路(きそじ)なる表記が由緒あるものなのか、それとも、当て字なのかはともかく、気になる(面白い)表記だと感じる。

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← 安岡章太郎/〔著〕『流離譚 下』(講談社文芸文庫) 「安岡文助の次男嘉助は天誅組に入り京都で刑死するが(上巻)、一方長男覚之助は勤王党に関わって、入牢、出獄の後、討幕軍に従って戊辰戦争に参戦、会津で戦死する。戦いの最中に覚之助が郷里の親族に宛てた書簡を材に、幕末維新の波に流される藩士らの行く末を追って、暗澹たる父文助の心中を推し測りつつ物語る。土佐の安岡一族を遡る長篇歴史小説」。

木曽街道 - Wikipedia」によると、『皇都午睡』三編中に『板橋宿は、中仙道木曾街道の咽首なれど』という記述があるとか。
木曾街道は、かつては今のように人馬の通行は殆ど無く、昔は山姥に遭遇するなど通行困難な路であり、善光寺を詣でるにも、木曾街道を行けば百里で済むところ、命の方が大事と二百里もある北陸道を経る場合も多かったことや、かの平家でさえ京より関東に出るのに北陸道を用いたことを書いており、木曽路がたいへんに険しい道であったことを述べている」。

「岐」は、「分岐点」なる言葉でも分かるように、「細かく分かれていく」の意を有し、「山道で枝状にわかれたもの」の意だし、「岐岨路」の「岨」は、音読みすると「そ」で、訓読みすると「そば」ないし「そばだつ」となる(「増殖難読漢字辞典 岨」参照)。
 意味は、「山の崖がけが切り立ったようになった所。絶壁」で、【岨道】(そばみち)なる言葉は小生も掌編で使ったことがある。

 これらのことを踏まえて「岐岨路」なる表記を眺めるに、実に的確な表現だと分かる。

 気になるので、調べてみたら、横井也有に『岐岨路紀行』なる文書があると分かった(「『岐岨路紀行』(横井也有)」参照)。
延享2年(1745年)4月6日、横井也有は第八代尾張藩主宗勝公のお供をして中山道を下る」が、その際の紀行文のようだ。

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→  安岡章太郎/〔著〕『流離譚 上』(講談社文芸文庫) 「父親を主題に名作「海辺の光景」を書いた安岡章太郎が、土佐の安岡一族のルーツを遡つて、幕末の藩士達に辿り着く。その一人安岡嘉助は文久二年、藩の参政吉田東洋を刺殺、脱藩、天誅組に入って京に上るが、志半ばにして刑死する。日記や書簡を手掛かりに、自分の実感を大切にしながら臨場感あふれるスリリングな語り口で、歴史のうねりに光を当てる長篇歴史小説。日本文学大賞受賞」とある。

 あるいは、「木曽路の記 東山道西帰之記序(その1) - もうろく爺ぃの悪あがき - Yahoo!ブログ」によると、貝原益軒の「東山道西帰之記序」にも、「室の八島に立より 足利の學校にまうで 佐野天明をすぎ妙義山にのぼり うすひ嶺をこえ けぶりの内に淺間が嶽を望み ほき路づたひに岐岨路をこえ 嶮棧を行過て褒斜を出る心地して美濃路にかゝり 越路を見まくほしきまゝに不破の関より右に転じて」なる記述がある。
 そのほか、川路聖謨文書にも、「岐岨路の日記」がある。
 江戸時代や明治のある時期までは、あるいは、「岐岨路」という表記が常識だったのかもしれない。

 だとしたら、いつ、何故に、「岐岨路」から「木曽路」へ変わったのだろう。

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コメント

話はどうでもいいですが、富山で震度4の地震という情報、どうでしたか?

投稿: oki | 2013/04/04 03:45

正直、朝、起きて、テレビのニュースで初めて知りました。グッスリ、寝ていたようです。富山市は、それほど揺れなかったようです。

投稿: やいっち | 2013/04/04 17:23

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